2007年12月25日火曜日

クリスマス・イヴ

東の空にまん丸の月が出た。
クリスマスイヴと満月、それに火星の赤。
今年はそんな取り合わせができたらしい。

特に何もなかったイヴだった。
積年、たぶん今年だけでないから、積年のリヴィングの集積を片付ける作業をした。
手元にあった本を整理することも、その大きな部分。
これを束にして、一応は頂いた本などは、これを改めて記録して、括った。

束を車に積んで、古本屋へ行こうとした。
ガレージの2段式のパレットを引き上げ、見ると、床面にどうもオイルが大分こぼれ濡れている。
やばそうな感じがしながら、エンジンキーを回す。エンジンはかかった。
ゆっくり前進、ハンドルを右に回してみると、日ごろは感じないギシギシといった音。
ハンドルが重い――これは、いかん。

マニュアル片手にボンネットを点検するが、エンジンオイルがあまりない感じはするが、
エンジンはかかったし……。下手の考え、休むに似たり。
今年7月に、確か10年目の車検を受けた販社のサービスカウンターに電話する。
「エンジンはかかるんですね。車検のときにオイル漏れがあるのでは、という点は
チェックしていたんですがね。オイルがこぼれているという色はどんな色ですか?」

結局、エンジンオイルというよりは、ハンドルなどを軽くする油圧系統のオイルが
漏れている可能性が強そうだ、とのこと。
自走することが可能か不明なので、JAFに電話することにした。
JAFを待つこと1時間余り。結論はやはり、ステアリング系統のオイル漏れ。
自走してエンジンを焼ききるようなことがあっては損ですから、と牽引してもらうことに。

横浜市内の販社工場まで牽引してもらい、検査。
結論は、ステアリングなどの油圧系統のオイルの送り元付近のチューブのゴムに
緩みが見つかったということだ。締め付けをしておしまい。
無代でオイルまで入れてくれた、というのは、工場が先の車検時の手落ちを認めたということか。

やっと自走して家まで戻り、改めて古本屋へもって行く本を積み込む。
横浜・鶴見駅近くの古本屋さん。業界に加入していることで、
以前にも一度、本を持ち込んだことがある。
月曜から土曜までの営業で、日曜日は定休。祝日は10時から8時とHPにあったので7時前に着いたが、ちょうどシャッターをすべておろし終えたその時だった。
出直すことも面倒なので、シャッターを叩いた。おじさんが車まで見に来てくれたが、
「全部まとめても1000円くらいしか出せませんが良いですか」
値段をいうつもりはないので、それはOKなのだが、
研究者がいれば有用かもしれない、と一束つくっていた文部省の指導の手引きや、
各種機関の機関紙などの山について「これは一般ごみに出してください」といわれたのは、
いささかプライドを傷つけられた思いだった。

意地でも、だれか研究者を探して、譲ってやる、と思ったものだ。

帰りがけの東の空、そこにポッカリト浮かんだ満月。結局は、それだけのことだった。

2007年12月2日日曜日

墓参り

父の墓参りに出かけた。
師走も2日。天気は良し。好天のうちに、墓参りはすますべし。

数えてみると、4日で父が亡くなって満12年。ということは、13回忌ということになる。
仏教界での数えの話だ。だからといって、墓参りと法要とは関係ない。
考えてみれば、葬式も無宗教で執り行った。

先祖を遡ってみれば、私からいって祖父の代、というか、
その父親の代まで、どうやら仏教のお寺さん、つまり坊さんだったようだ。
いまでも、そのお寺は福岡の在にある。
真宗大谷派金吟山信教寺、というのが確かそのお寺。

祖父は、大学を二つ出て、新聞記者になった。
お寺は、妹に婿をとって、後を継いでもらった。
そして、その息子、つまり私の父は、あえて仏式の葬式を求めず、無宗教を望んだ。
そういえば祖父の葬式は、仏教で行われたようだが、
長男夫婦をはじめ、クリスチャンで、お骨はどこへ納められたのか。

葬儀の変遷というのは、大袈裟に振りかぶれば、社会のありかたの変遷だ。

「家」がしっかりしていた時代、葬儀は「家」の格式に則り、その枠で執り行われた。
社会に「会社」が根を下ろし、人びとが「家」から「会社」の呪縛に囚われはじめ、
「会社」の存在が大きくなるにしたがって、葬儀に「会社」が大きく関与をし始めた。

「社葬」が、それだ。

「社葬」は、やはり「会社」という社会のなかでその序列を再確認したり、
再構成をするうえでの大きなモメントともなった。

「親戚代表」「葬儀委員長」……。
葬儀を執り行うに当たっての「要」であり、中心である人、その役割には大きな存在感があった。
そういう時代が長く続いた。

ある時から、葬儀が逆のベクトルを辿り始めた。
「葬儀は近親においてあい済ませ」るケースが、増え始めた。

死亡広告のパターンというのは、やはり時代の変遷とともに変わってきている。

「無用な会葬は不要じゃ」

心になくとも、葬儀に参列する、ということが、
本当に不要であったり、無駄なことであるのか否か、議論はあろう。

「千の風になって」私の骨は砕いて、太平洋に撒いて欲しい……
葬儀を含め、自身の死後をいかにしてほしいのかそれは、
だんだんと死に行く人の、自身の処分を含めた希望であり、権利になりつつあるようだ。

理屈は別にして、今日は静かに晴れ、野の枯れ具合も美しく、
自然はかくも華やかな初冬を演出するのだ、と思わせた。

もう後、何年、墓守をして、墓参りができるのか。
そんなことも思い始めた、今日この頃ではある。

2007年10月14日日曜日

「小顔」ということ

いつの間にか、日本の女の子たちは「小顔」になっているようだ。
小さな顔、長い手足……。一昔前に比べても、その形は大きく変わっているように思える。

「小顔」などといっても、はっきりした定義がある言葉でもなさそうだ。
小さな顔は、何に比べて「小さい」のか。どれくらいの比率以下が「小顔」なのか……。
それでもネット上には「小顔になれる基礎知識」であるとか「小顔美人になるこんな方法」などというサイトがずらりと並んでいる。

「小顔」という言葉は、「アムラー」を生んだ安室 奈美恵が登場した12年位前以降の 流行のように思える。それ以前にも 「小顔」の人がいたに違いないが アムロのファッション・リーダーとしての茶髪ロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなどの総体として、この時代以降に「憧れ」の対象としての言葉が定着したようだ。
因みにアムロは身長158cm、40kg。スクリーンからの印象より、小柄だといえそう。



かつて「八頭身美人」という言葉があった。
1953年(昭和28年)に伊東絹子がミス・ユニバースの3位になった時、彼女を称していった言葉で、流行語になった。当時の彼女のサイズは T-164cm, B-86W-65, H-92とのことで、当時の日本人としては大柄な、西洋的な体形の美女だったらしい。


ミス・ユニバースでは、その後、1959年(昭和34年)に児島明子が優勝している。身長168cm、体重55kg、スリーサイズは93、58、97cm。今年07年の優勝者、森理世さんは身長170cmだけしか不明。

そんな中で、「ツイギー」というイギリスのモデルが日本へやって来たときを思い出す。
名前の通り、全身が「小枝」のような印象で、小顔、手足は細く、長かった。
1967年(昭和42年)のことで、彼女が身に着けて上陸したミニスカートは全世界を席巻する。
日本では彼女がやってきた10月18日を「ミニスカートの日」としている。
40年前のことだった。

2007年9月20日木曜日

やっと初孫

待望の「初孫」が、やっと生まれた。
娘は「生まれた」でなく「産んだ」と主張するが……。
予想通り、男の子だった。


予定日から遅れること12日。
「もう生まれるかも」と訴え初めてから約一ヵ月かかった勘定だ。
その「甲斐」?あってか、体重は3,516g。いや、立派な体重だ。


恵比寿、中目黒と代官山のトライアングルのほぼ中心にある産院は、自然分娩を旨としている。それでも、そろそろ促進剤を、と予定していた19日早朝、娘に産気が訪れた。「産出」は昼過ぎのことだった。


誕生の知らせを聞いて、産院に行って見ると、畳敷きの和室の布団の上に、赤ん坊は寝ていた。
お包みの中から、赤ら顔が見えた。
赤ん坊は本当に赤い。なのになぜ、嬰児<みどりご>というのだろう。
などと愚にもつかぬことを考えながら、赤ちゃんの顔を見ていると、
どうも私と私の母親に、どこか似ている。目の下に袋ができそうな顔だ。
ちょっと、お地蔵さんにも似ている。
余り、大泣きもしない、大人しい子のようだ。
賢い、賢い、というのは、すでに爺馬鹿というやつだろうか。

娘の出産に付き添っていた婿さんは、早速、
8ミリならぬデジタル・ムービーを回していた。
なんと、出産直後のシーンから、映し出されていた。
世の中、どんどん出産の風景も変わっているものだ。

ともかく、母子とも無事での出産。なによりの幸せというべきだろう。

2007年9月6日木曜日

台風と予定日

台風9号が北上している。
このままでは、首都圏を7日未明にも直撃する勢いだ。

その7日。娘の出産予定日だ。
35歳での第1子で、半月ほど前から
「もう産まれるかも」の大騒ぎが続いている。

結局は、予定日の周辺に産まれることになるのだろうが、
大事をとりすぎて、家でゴロゴロでは、最後は産まれない。
2時間程度は歩きなさい、との先生のご託宣に
家の周辺を歩いたり、しているのだが、
「一人では、何かあったら心配」とは
なかなかに我侭に育てていまったものだ。

というわけで、夫を含め、家族が変わる変わるで
散歩や午後の時間を過ごすのを受け持ち、
私も昨日、お当番に出かけた。

何をして時間を過ごすか。
いずれにせよ子どもの出産は、ほかのことと同じで
待つより仕方がないのだから、
その待つ時間を、どのように過ごすか、だ。

昨日は、近くにある東京都庭園美術館を訪ねることにした。
以前の迎賓館。白金の自然教育園のすぐ隣にある。
ちょうど、ロシアのバレエなどの足跡を展示する
「舞台芸術の世界」展が行われていた。

庭園美術館は、もともとは
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年-1981年)が
1947年の皇籍離脱(実質的な臣籍降下)まで暮らした邸宅で、
1933年(昭和8年)に竣工した、当時流行のアール・デコ様式を採用した建物で、
東京都の有形文化財に指定されているものです。

美術館の建物自体が美術品で、その建物の中にいるだけで、
気分が落ち着く所である。
展覧会の方は、バレエの歴史を知っていると、もっと
理解が深まるのだろうが、それはそれなりに楽しめた。

断続的に激しく降る雨の中、庭園の緑が一層深く
芝生に2つづつ置かれた彫刻のベンチが可愛らしく存在を主張していた。

さて、「予定日」は無事に出産日になるでしょうか。
なんとか無事に産まれてくれれば良いと祈るばかりです。

2007年8月28日火曜日

「ミシュラン」の命日

きょうは、うちの「長男」の1周忌、命日だ。
「長男」の名は、「ミシュラン」。オス9歳のチワワだった。

去年のこの日も、暑い一日だった。
前の晩から、「ミシュラン」は吐く息が苦しそうだった。
横になることができないらしく、時々苦しげに咳をしていた。
風邪というのではなく、心臓に疾患があったのか、肺に水が溜まり、
呼吸が苦しげなことが、段々に増えてきていて、早めに病院に連れていこう、
と言っていたところだった。

朝になった、妻が動物病院に連れて行った。
「余り、調子が良くはないみたいだけど、夕方には連れて帰れそうだ、と
お医者さんはいっている」との話だった。
夕方、少し早めに帰宅する途中、妻から連絡が入った。
「どうも様子がおかしいみたい。急いで来て欲しい」と病院からだった。

十数分後、動物病院に着くと、妻は受付のソファで、
毛布に来るんで横たえたミシュランを抱えていた。間に合わなかった。

「ミシュラン」は、下の娘が中学三年で、学校へ行けず、自室に籠もり始めた頃、
通学路にあったペットショップから、「たっての望み」で買入れた。
これまでは平屋に住んだときにウサギなどを飼ったりしたが、
現在はマンション住まいでもあり、ペットも亀どまりだった。
果たして、マンションで飼うことができるか、ちゃんと飼育ができるか――。
そんな諸問題も、少しづつ解決していった。

ちょうどチワワのウルウルとした眼が、サラ金のTVコマーシャルで一躍、
ブームを呼び始めた頃。娘の躾よろしく、生来のおっとりとした性格のミシュランは
家中の欠かせない一員となっていた。

ミシュランの死は、飼育の中心になってきた娘と妻にとって、
形容し難い苦しみであり、悲しみであった。
亡き骸は、その週末、一家で野尻の山荘の地中に埋葬した。
カラマツやカエデなどの葉が積み重なった腐葉土の中、
ミシュランが好きだったウシの縫い包みなどと一緒に……

それから数ヶ月、妻もミシュランと散歩に出かけたコースを歩くことができず、
散歩で出会った犬友達と顔も会わせたくない、と閉じこもり勝ちであった。
「次のイヌを飼ったら」というアドバイスもあったが、
「ミシュランが死んだからといって、すぐにゲーム機を買い換えるみたいにはできない」
と寧ろかたくなな心は開かなかった。

今年の初めになって、妻と娘が、やっとペットショップを覗きに出かけるようになった。
やはり、いままで家の中にいた友達が急になくなった、との喪失感を癒すのには
代わりにはならないまでも、ペットに如くはない――。

上の娘が急遽、結婚をすることになり、一段落した5月の連休。
家に帰ると、小さな白い物体がゲージの中にいた。

2代目のチワワ。今回はメスだった。11月に生れた5人?兄弟の妹分らしい。
川崎の国道1号線沿いにあるペットショップだが、こじんまりした店で
飼っているおばさんの躾け方も気に入っての決断だった。

前回、ミシュランの時の命名者は、下の娘だった。今回も娘は
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくる
「幸いの竜」フッフールを付けたかったらしい。
しかし、「白い」イヌの白さにこだわった父親や上の娘が
白い酒「マッコリ」などと茶々をいれ、白いのに妥協して「ルー」と名前がついた。

先日、信濃町に出かけた際、山荘のミシュランの墓に詣でた。
思わず、埋葬した地面は、ミシュランの犬形に沈み込み、
自分の存在を主張しているかのようだった。
持って行った花を植えてきた。

ミシュランが4キロくらいはあったのに、ルーは2キロほど。
そのかわり思わぬほどのすばしこさを発揮する。
ミシュランを悼みながら、いまではすっかりルーが仲間だ。

2007年8月20日月曜日

やはり胡弓の音



九月、というと、「セプテンバー・ソング」の前に、
風の盆の胡弓の音を思い出す。

私が越中・八尾を訪れたのは、もう何年前のことか。
多分、二十年ほど前にもなろうか。

ちょっと夕方にかけ小雨が通り過ぎて、列をなす鳥追いと浴衣姿の踊り手たちと、
三味と胡弓の弾き手が、見えない糸で操られているように、
整然としかも優雅に舞い、動く。

興ざめだったのは、NHKのライブ中継というやつ。
確かに地元にとっても、観光資源を全国へ宣伝する絶好の媒体に違いないし、
現地へ行けない人に、空気を含めて伝えるのだから、価値がないわけではないが、
そのライトや音声を随えたカメラのクルーは、やはり
現場の厳粛でさえある空気とは違和感の強いものであった。

それでなくとも観光の見物客で身動きのできない表通りを避け、裏道へ。
そこで一番気に入ったのは、ほかでは聞かれない、胡弓の揺らぐような音だった。

また、行って、見て、聞いて、感じたい、と思った。

一日から三日、といわれる「本番」だが、
それ以前の、観光客がいりこむ前や、三日目の夜更けが良い、という話だ。

2007年8月19日日曜日

やっぱり東京は暑い


焼けている、とは聞いていたが、さすがに今年の夏は暑い。
前半の冷夏風のあとだけに、余計、こたえるのだろう。

まして、信州の涼風に寛いできた体には堪える。
もう夏休みは十分にとったので、そろそろ仕事に戻る態勢に入らなければならない。

それにしても、今年の夏、なぜか赤トンボの姿をトント見かけない。
アキアカネだから、平地ではもう少し遅いのかもしれないが、信州の山の上でも、今年はオニヤンマばかりが目についた。何かの異変なのだろうか。

今回の信濃路の滞在中、合歓の木が多いのに驚いた。
東京でもたまにあるが、家の近くの百日紅の咲いているほどの頻度で、合歓の木にであった。
樹上に淡いピンクの花が可憐に咲いていた。

2007年8月10日金曜日

信濃町での酔生夢死

現在、信濃町に滞在している。
長野県上水内郡信濃町。すぐ北側は県境をはさんで新潟県・妙高。

この町に来初めてから、何年が経つだろう。

一番初め、ここへ来たのは大学2年生の夏。
野尻湖のホテルで、研究所の夏の合宿が、毎年ここで行われていた。

野尻湖は、県内の諏訪湖に次ぐ大きさの湖。近くの斑尾山が出口を塞いでできた、との説がある。
マンモスの骨が出てきたことから、大衆的に発掘が行われたことでも知られる。

黒姫山、妙高山、飯綱山が見え、反対側には斑尾山がある。

戦前から「山の軽井沢」「湖の野尻湖」として、外国人の避暑地として好まれ、湖畔に外国人村、今では「国際村」と呼んでいる一画には、夏を楽しむ外国人の姿がよく見られる。
ブルーベリーや、ルバーブなどという西洋野菜や果実が、早くから栽培され、利用されてきたのは、他に見られないものだろう。

一方で、この地は、小林一茶のふるさととしても知られる。一茶の記念館は、この町の観光の目玉のひとつだ。
冬はスキー客で賑わう黒姫山の中腹には、童話館があり、一面のコスモス畑を越えてくる風に身を任せていると、それだけで幸せになれる。

縁があって、かれこれ4半世紀前から、ここの別荘マンションに通い始め、冬と夏に関西から、また後には東京から通ってきている。

ひと夏の中で、何が幸せといって、大きな木の陰にデッキチェアーを持ち出し、木漏れ日の中で一杯呑みながらの読書、そしてまどろみ。酔生夢死。青空に白い雲が勃然と湧き上がり、林の中を吹き抜けてきた風が、やさしくヒンヤリと頬をなでていく――。休みだから、と走り回るのとは違う、ちょっと贅沢な気分だ。

還暦を過ぎたら、せめてそれくらいの贅沢を許してもらおう。

2007年8月9日木曜日

戸隠好天

戸隠のバードラインを走って、奥社まで行ってきました。

長野県上水内郡信濃町、という所に、現在、滞在しています。
野尻湖と一茶旧跡の町です。
そこからバードラインというのだそうですが、まずまずの舗装された山道をドライブ。
取れたての玉蜀黍を焼く良い匂いを嗅ぎながら、ひたすら進みます。

ざっと40分。登りの道が信濃町から「これより長野市」の標識(正確には「これより」はない)を過ぎると戸隠の牧場があったり、忍者屋敷がある。これも時間のある時には、お楽しみなのだが、本日は娘と連れ合いの母親(84歳)連れなので、まずは戸隠のスキー場近くのヒュッテ兼カフェ「パイプのけむり」へと目指す。

ちょっと入りこんだ場所ともいえるが、スキー場の第3駐車場を少し降りたところなのだそうだ。連れ合いらが、もう何年前からになるのか、10年は下らないのかもしれない位の以前から、毎年の夏、1-2度は訪れているお店。ドロップアウトしたマスターのカレーやシチュー、ケーキなどを、それらしい山荘風の店内で食べ、マスターやその連れ合いさんと会話――あの人、この人、以前かかわりのある人たちの消息などが、またご馳走になる、そんなお店。少し遅めのランチだが、コースで食べたら、これは満足、満足……。

帰り道、戸隠の奥社へ参った。
御婆ちゃんも、数年前までは健脚を誇り、歩いてみよう・食べてみよう、の御婆さんだったが、昨年夏前に首筋の神経が狭窄してきたため、手術をし、予後は悪くないのだが、すっかり気弱になるとともに、歩けなくなったことを本人が一番自覚し、落ち込んでいる。それでも孫娘が精一杯の世話をしているだけに、孫娘と婿さんに気兼ねして、「奥社まで、腹ごなしに歩いていらっしゃい」とノタモウた。

これまでにも何度か、奥社へお参りしたように思ったが、久しぶりに娘と二人でお参りするのも悪くないか、と歩き始めた。持っていた超長めのレンズをつけたカメラでおばあちゃんが段々見えなくなって、その先が、すばらしい杉並木ながら、何と長かったことよ。

薀蓄ひとつ、二つ――
「戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。 
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。   (戸隠神社HP)

神仏混淆のころは「戸隠山顕光寺」と称して、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えたのだそうです。 

江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。明治になって戸隠は廃仏毀釈の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。(同HP)

昔から都に名が知れていた、ということは能 「紅葉狩」などに残る、鬼女伝説にもそれが示されているのだそうな。これはウキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E4%BC%9D%E8%AA%AC――
才色兼備の呉葉という主人公が、いつの間にか「紅葉」という名になるらしいのだが、お試しください。

奥社までは、ざっと往復4キロ=1時間の行程。娘と日ごろは話さないような話をしながら歩きました。
めでたしメデタシ。

2007年8月3日金曜日

「喪章を着けた千円札の漱石」

今週の月曜日、7月30日に「明治の『最期』の日」を書いた。

その後、ふと一冊の本を思い出した。

「喪章を着けた千円札の漱石」というのが、その本だ。福岡女学院大学などの教授で、原武哲(はらたけ・さとる)という人の著書で、笠間書院から03年10月に出ている。

漱石の研究家は、ゴマンといるようで、漱石という作家の人気を裏付けているのだけれど、この書名に思わず、この本を手にとった。

有名な千円札の漱石の肖像がある。この写真がいつ、どのような状況で撮られたものであるのか、という一種の謎解きのような興味といえよう。

答えは、概ね既に知られていることのようだ。明治45年9月に東京の写真館で、小川一真氏が撮影した4枚のうちの1枚、という。漱石の娘婿、松岡譲編纂の「漱石写真帖」に、そのように出ているのだそうだ。4枚のうちの1枚は集合写真で、漱石の終生の友である満鉄総裁になった中村是公と共に写っている。

現在のように、携帯電話でもパチリ、「写メール」という手ごろな手段など当然のことながら、当時あるわけではない。小川一真という撮影者も赫々たるカメラマンである。小川の事情もある。

それでは撮影の時期をもう少し絞り込むことができないか――。それが本の著者、原武氏の目論見であり、その手がかりになるのが、漱石の左腕に巻かれている「喪章」である、というのだ。

この「喪章」が明治の「最期」と関わってくる。つまり、天皇が亡くなると、官吏でもない一般の民衆が「喪章」をするような慣わしがあったのだろうか、と。明治天皇崩御を伝える新聞を紐解いてみた。

なるほど、あるある。「天地諒闇(りょうあん)」などという、恐らく多くの現代人が見たことのないような文字に混ざって、何度も紙面に掲載されている。

8月2日付には「閣令」というから、閣議ででも決められたのだろう服喪、喪服の例を説明している。少し長くなるが採録してみよう。(大阪朝日新聞8月2日付け7ページ、最下段)
●大喪中の喪章 
8月一日付閣令」第2号を以て皇室喪服規程其の他別段の定めあるものを除くの大喪中の喪章は
△和服 衣服の左胸に蝶形結びの黒布を付す
△洋服 左腕に黒布を纏う
(中略)期間は別に宮内大臣より公告なき限り皇室服喪令の示す所に随い1箇年と心得居りて然らん。

――このあとが面白い。

因みに喪章用の黒布は舶来の紗に限るものの如く考え商人が無闇に値段をせり上げ居るを不当なりと思いながら買い入れて佩用せる向きも多きようなれど……何の裂布でも黒色なれば差支えなしと知るべし。

ほかの広告ページには確かに喪章を勧めるものも見られる。

そして「歌舞音曲の停止」、子供の謹慎、各商店の店頭の弔旗の出し方までこと細かい。そういう時代だったのだ、と改めて思った。

2007年7月30日月曜日

明治「最期」の日

7月30日は、明治天皇の亡くなった日だそうだ。
「命日」ということになるのだろうが、ウイキペディアは「明治の最後の日」と表現していた。

「最後」なのか、「最期」であるのか、いずれにせよ、明治45年のこの日を限りに明治が終り、翌日からは大正元年7月31日と改まったのであろう。

天皇の誕生日というのは、戦前までは「天長節」、皇后の誕生日が「地久節」と呼ばれた。
昭和天皇の誕生日は4月29日、現在の「みどりの日」「昭和の日」。また明治節は「文化の日」とそれぞれ名前を変えつつも暦に足跡を残している。

明治天皇の崩御に際しては、乃木将軍夫妻が殉死するというショッキングな出来事が追いかけ、その是非が論議された。

明治天皇は、明治大帝の名が残る、現代の偉大な天皇であった、とされる。確かに、江戸という時代から御一新、明治維新という革命の世を、その「錦旗」としての役割を果たし、日清・日露の両役に大元帥として臨んだ。しかし、日露戦争での勝利以降の日本現代の歴史において、果たしてどのような功罪があったのだろうか。

その亡くなった日から、95年が経過したわけだ。
「戦後レジームからの脱却」を主張した自民党総裁は、未曾有の大敗北で参院選を終えた。

2007年7月29日日曜日

シャンソンの夕べ

もう2時間もすると、どこのテレビもラジオも参議院選挙の当選特別番組、いわゆる特番の世界の突入する

それを前にテレビのスイッチを入れた。NHKのBS2で「シャンソン」の番組をやっていた。
司会は永六輔氏。どうやら今月14日、フランスでは革命記念日、日本では「パリ祭」として知られる、その日の行事を収録して放送しているようだ。その日に、シャンソン業界としては、恐らく年中行事としては最大のものとして定着しているのだろう「パリ祭」。すでに今回が45回目というから、定着した行事だろう。

仕掛け人は、日本のシャンソン業界の大姐御、石井好子さんのようだ。この人が立ち上げ、この年中行事が続いてきた。司会の永さん、今年は画面を見ても、急に老け込んで、どこか悪いところがあるのでは、と妙に心配してしまうのだが、始まって何回か以降、ずっと司会を勤めてきたようだ。

それはラジオのTBSの番組「どこか遠くへ」という長寿番組で、そんな話をしていたのをたまたま聞いた。

私は永六輔という人が好きだ。学生時代、つまり30年余り前、夜の10時半ころに当時の「ラジオ関東」の番組を、永さんがもっていた。3人のメンバーが、勝手なことを言い合いつつ、時代を批評し、自分の考え、感じ方を話していた。「きょうの話はきのうの続き、きょうの話は。また明日」という台詞が、番組の初めから終わりか、そして両方かで流れるところが、いかにも永さんらしい趣向のように思えた。一緒に出ていたのが、前田武彦、大橋巨泉というワセダの人びとだった。番組構成者の集団みたいなものだったのだろう。

永六輔が作曲の中村八大とのコンビで、レコード大賞の第1回目をさらったのが水原弘の「黒い花びら」。そして坂本九ちゃんとの6・8・9のトリオの作品が世の中に出て行く、そんな時代だった。

以来、「男のおばさん」であったり「鯨尺」のおじさんであった永六輔の主張に、私は共鳴し、同調してきた。それは今の「どこか遠くへ」のラジオ番組でもそうだ。土曜日の午前中にもラジオ番組をもっている。ただ、今年の春以降、ラジオで聞いていても、ちょっと健康を心配していた。

永さんの話がメインではないのだけれど、シャンソン業界の「パリ祭」が45回も続いている、というのは、恐らく「たいしたこと」なのだろうな、と思う。それを仕掛け、続けてきた石井さんというのもたいしたものといえよう。親父さんは元朝日新聞の常務を勤め、戦後は政界の転じた石井光次郎氏。

この祭りには、昔懐かしい、芦野博、深緑夏代 、菅原陽一、そして加藤登紀子、ヘーと思ったのが前田美波里……。そんなメンバー。シャンソンが、日本のどこかで、ライブハウスを構えながら、華々しくはなくとも、歌手たちの自身の経験を肥やしにしながら、その味を育ててきたのだな、と思う。

確かに、一人の歌手が、若いだけでは華やかであっても、シャンソンの世界、経験を表現することはなかなか難しい。というより、ベテランたちの画面には耐え難いかもしれないが、その歌声の確かさ、訴えの響きが、若さとはまた別のものであることを改めて知った思いでした。

2007年7月16日月曜日

朝デニ、逗子の披露山へ行ってきました

台風4号も東へ去り、けさ一番は好天の兆し。夜明けから東の空が青く、日射しが眩しかった。



連れ合いと犬と共に、国道1号を西へ。藤沢から江ノ島に回り、海岸道路沿いに逗子へ出かけた。逗子のデニーズでモーニング。テラスで波待ちをするサーファーや一人乗りのカヌーの風景を目の前にしながら、コーヒーを飲む。昔はこの海岸も、ほとんどが海水浴の人たちで混んで、海が見えないほどの人出だったが、あまり泳ぎの人の姿は、この時間にはまだほとんど見えなかった。



それも逗子八景の一つといわれる披露山公園で愛犬を遊ばせたいのが目的なのだが、この公園の駐車場が午前8時からしか開かないから、時間待ちのようなものだ。8時を過ぎると、日射しは一層強くなり、コンクリートの舗装の上では愛犬の足が暑そう、という程。ここからの眺めと海からの風が好い。



この公園から、湘南のビバリーヒルズと称される住宅街を通り抜けて、もう一つの大崎山の公園まで歩く。途中には松嶋菜々子、反町夫妻の豪邸や、ソニーの大賀さんの家など、表札のある家、ないけれど監視カメラだけがやたらに動き回る家など、さまざまな表情を見せる。年季のいった鶯の聞かせる声が聞こえたり、トンビが囀ったり。なかなか風情がある。



大崎山の頂上からは、小坪のマリーナや佐島マリーナが間近に見え、ヨットの白い帆と、こちらでも波を待つサーファーが蜘蛛の子ほどの大きさの黒い点として見える。思ったほどには台風の余波は少なそうで、江ノ島側にだけかなり高い波が押し寄せる様が、遠目にも白い波頭の移動で見て取れた。

2007年7月14日土曜日

COSTCOへ行きました

台風4号は、依然強い勢力を保ち続けて、北上しているようです。
被害の出ている地域の方々、お見舞い申し上げます。

関東の今日は、本降りにはなったものの風はまだなし。
連休の初日になるようで、連れ合いに強要されて、川崎にできたばかりのCOSTCOへ出かけた。

「コストコホールセールは、高品質な優良ブランド商品をできる限りの低価格にてご提供」する会員制倉庫型店舗です」とHPにある。

コストコ社のはじまりは1976年、カルフォルニア州サンディエゴにある飛行機の格納庫を改造して作られた「プライスクラブ」という名前の倉庫店でした。一方、1983年には「コストコ」の最初の倉庫店がワシントン州シアトルにオープンしました。コストコは、アメリカ国内において創業後わずか6年未満でその売上をゼロから30億ドル(約3,000億円)までに達成させた最初の会社となったのです。1993年には「コストコ」と「プライスクラブ」が合併して一つの会社になり、「プライスコスコ」という名で206倉庫店を有し、年間160億ドル(約1兆6千億円)を売り上げました――というのが、その歴史。

川崎には12日に日本で6店舗めのオープン。産業道路に接した、いかにも倉庫という店舗の駐車場には、入場する自家用車が長い列をつくっていた。店内に入るには、会員であることを証明、店から出る際には会員証、領収書と搬出する買い上げ品のチェックがある、という「万引き」を前提にしたような変な仕組みだ。それも、どうやら会員制のメリットを引き出す方法の一つではあるようだが……

店内に入ると、ともかく天井の高いのが印象的だ。通常のスーパーの店舗を見慣れた目には、その高さは1.5倍から2倍の高さに見える。その天井に向かって、粗く仕切られた展示の棚が数段積み重なる。店舗の建物が打ちっぱなしの構造だとすれば、その品物の展示も日本風のきめ細かさなどとは無縁、無造作に荷解きだけして置いてある、との風情だ。

客層は、圧倒的に若いカップルと子供。たまに若夫婦に連れ添われたお年寄りの姿が見られる程度。
従業員は、恐らく意識してなのだろう、いかにもアメリカ西海岸の人種のにおい、化粧。

なにが一番困るかというと、巨大な売り場の中でトイレが1箇所しかないこと。女性用だけでなく、珍しく男性用のトイレに長い列ができ、日本では必ず苦情がでるだろう、という感じ。

売り場でボーっと立っていると、あちこちで「パパー」「ママー」の声。子供が父親や母親に声をかけている訳ではない。母親が連れ合いを呼んでいたり、父親が……、という図なのだが、どこのママが、どこのパパに声をかけているのか分からないだけに、しょっちゅう自分のことか、とキョロキョロ。どうして日本では、連れ合いのことを、お互いにパパ、ママと呼ぶのだろう。だれのことなのか分からぬ掛け声は
止めてもらいたいものだ。

2007年7月12日木曜日

Chagaleの笑顔

シャガールの正しいスペルはchagall。 そうしたいところだけれど、ちょっと変えてchagaleがblogネーム。人生72年説をとって、その日まで後10年余り。落ち逝く落日を激しく燃やしてみるか……。と、思わないでもないのですが、まだ会社員生活の延長線上。せめて「笑顔」の話でも。仏教で「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがあるようです。財はなくともできる「布施」=施しが7つある。優しく暖かい眼差しで周囲を明るくする「眼施(げんせ)」などと共に「和顔悦色施(わげんえっしょくせ)」というのがそれ。優しい微笑をたたえた笑顔で人に接すること――。せめて、そんな笑顔が作れるような話が綴れれば良いな、と思います。