今週の月曜日、7月30日に「明治の『最期』の日」を書いた。
その後、ふと一冊の本を思い出した。
「喪章を着けた千円札の漱石」というのが、その本だ。福岡女学院大学などの教授で、原武哲(はらたけ・さとる)という人の著書で、笠間書院から03年10月に出ている。
漱石の研究家は、ゴマンといるようで、漱石という作家の人気を裏付けているのだけれど、この書名に思わず、この本を手にとった。
有名な千円札の漱石の肖像がある。この写真がいつ、どのような状況で撮られたものであるのか、という一種の謎解きのような興味といえよう。
答えは、概ね既に知られていることのようだ。明治45年9月に東京の写真館で、小川一真氏が撮影した4枚のうちの1枚、という。漱石の娘婿、松岡譲編纂の「漱石写真帖」に、そのように出ているのだそうだ。4枚のうちの1枚は集合写真で、漱石の終生の友である満鉄総裁になった中村是公と共に写っている。
現在のように、携帯電話でもパチリ、「写メール」という手ごろな手段など当然のことながら、当時あるわけではない。小川一真という撮影者も赫々たるカメラマンである。小川の事情もある。
それでは撮影の時期をもう少し絞り込むことができないか――。それが本の著者、原武氏の目論見であり、その手がかりになるのが、漱石の左腕に巻かれている「喪章」である、というのだ。
この「喪章」が明治の「最期」と関わってくる。つまり、天皇が亡くなると、官吏でもない一般の民衆が「喪章」をするような慣わしがあったのだろうか、と。明治天皇崩御を伝える新聞を紐解いてみた。
なるほど、あるある。「天地諒闇(りょうあん)」などという、恐らく多くの現代人が見たことのないような文字に混ざって、何度も紙面に掲載されている。
8月2日付には「閣令」というから、閣議ででも決められたのだろう服喪、喪服の例を説明している。少し長くなるが採録してみよう。(大阪朝日新聞8月2日付け7ページ、最下段)
●大喪中の喪章
8月一日付閣令」第2号を以て皇室喪服規程其の他別段の定めあるものを除くの大喪中の喪章は
△和服 衣服の左胸に蝶形結びの黒布を付す
△洋服 左腕に黒布を纏う
(中略)期間は別に宮内大臣より公告なき限り皇室服喪令の示す所に随い1箇年と心得居りて然らん。
――このあとが面白い。
因みに喪章用の黒布は舶来の紗に限るものの如く考え商人が無闇に値段をせり上げ居るを不当なりと思いながら買い入れて佩用せる向きも多きようなれど……何の裂布でも黒色なれば差支えなしと知るべし。
ほかの広告ページには確かに喪章を勧めるものも見られる。
そして「歌舞音曲の停止」、子供の謹慎、各商店の店頭の弔旗の出し方までこと細かい。そういう時代だったのだ、と改めて思った。
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