2007年7月30日月曜日

明治「最期」の日

7月30日は、明治天皇の亡くなった日だそうだ。
「命日」ということになるのだろうが、ウイキペディアは「明治の最後の日」と表現していた。

「最後」なのか、「最期」であるのか、いずれにせよ、明治45年のこの日を限りに明治が終り、翌日からは大正元年7月31日と改まったのであろう。

天皇の誕生日というのは、戦前までは「天長節」、皇后の誕生日が「地久節」と呼ばれた。
昭和天皇の誕生日は4月29日、現在の「みどりの日」「昭和の日」。また明治節は「文化の日」とそれぞれ名前を変えつつも暦に足跡を残している。

明治天皇の崩御に際しては、乃木将軍夫妻が殉死するというショッキングな出来事が追いかけ、その是非が論議された。

明治天皇は、明治大帝の名が残る、現代の偉大な天皇であった、とされる。確かに、江戸という時代から御一新、明治維新という革命の世を、その「錦旗」としての役割を果たし、日清・日露の両役に大元帥として臨んだ。しかし、日露戦争での勝利以降の日本現代の歴史において、果たしてどのような功罪があったのだろうか。

その亡くなった日から、95年が経過したわけだ。
「戦後レジームからの脱却」を主張した自民党総裁は、未曾有の大敗北で参院選を終えた。

2007年7月29日日曜日

シャンソンの夕べ

もう2時間もすると、どこのテレビもラジオも参議院選挙の当選特別番組、いわゆる特番の世界の突入する

それを前にテレビのスイッチを入れた。NHKのBS2で「シャンソン」の番組をやっていた。
司会は永六輔氏。どうやら今月14日、フランスでは革命記念日、日本では「パリ祭」として知られる、その日の行事を収録して放送しているようだ。その日に、シャンソン業界としては、恐らく年中行事としては最大のものとして定着しているのだろう「パリ祭」。すでに今回が45回目というから、定着した行事だろう。

仕掛け人は、日本のシャンソン業界の大姐御、石井好子さんのようだ。この人が立ち上げ、この年中行事が続いてきた。司会の永さん、今年は画面を見ても、急に老け込んで、どこか悪いところがあるのでは、と妙に心配してしまうのだが、始まって何回か以降、ずっと司会を勤めてきたようだ。

それはラジオのTBSの番組「どこか遠くへ」という長寿番組で、そんな話をしていたのをたまたま聞いた。

私は永六輔という人が好きだ。学生時代、つまり30年余り前、夜の10時半ころに当時の「ラジオ関東」の番組を、永さんがもっていた。3人のメンバーが、勝手なことを言い合いつつ、時代を批評し、自分の考え、感じ方を話していた。「きょうの話はきのうの続き、きょうの話は。また明日」という台詞が、番組の初めから終わりか、そして両方かで流れるところが、いかにも永さんらしい趣向のように思えた。一緒に出ていたのが、前田武彦、大橋巨泉というワセダの人びとだった。番組構成者の集団みたいなものだったのだろう。

永六輔が作曲の中村八大とのコンビで、レコード大賞の第1回目をさらったのが水原弘の「黒い花びら」。そして坂本九ちゃんとの6・8・9のトリオの作品が世の中に出て行く、そんな時代だった。

以来、「男のおばさん」であったり「鯨尺」のおじさんであった永六輔の主張に、私は共鳴し、同調してきた。それは今の「どこか遠くへ」のラジオ番組でもそうだ。土曜日の午前中にもラジオ番組をもっている。ただ、今年の春以降、ラジオで聞いていても、ちょっと健康を心配していた。

永さんの話がメインではないのだけれど、シャンソン業界の「パリ祭」が45回も続いている、というのは、恐らく「たいしたこと」なのだろうな、と思う。それを仕掛け、続けてきた石井さんというのもたいしたものといえよう。親父さんは元朝日新聞の常務を勤め、戦後は政界の転じた石井光次郎氏。

この祭りには、昔懐かしい、芦野博、深緑夏代 、菅原陽一、そして加藤登紀子、ヘーと思ったのが前田美波里……。そんなメンバー。シャンソンが、日本のどこかで、ライブハウスを構えながら、華々しくはなくとも、歌手たちの自身の経験を肥やしにしながら、その味を育ててきたのだな、と思う。

確かに、一人の歌手が、若いだけでは華やかであっても、シャンソンの世界、経験を表現することはなかなか難しい。というより、ベテランたちの画面には耐え難いかもしれないが、その歌声の確かさ、訴えの響きが、若さとはまた別のものであることを改めて知った思いでした。

2007年7月16日月曜日

朝デニ、逗子の披露山へ行ってきました

台風4号も東へ去り、けさ一番は好天の兆し。夜明けから東の空が青く、日射しが眩しかった。



連れ合いと犬と共に、国道1号を西へ。藤沢から江ノ島に回り、海岸道路沿いに逗子へ出かけた。逗子のデニーズでモーニング。テラスで波待ちをするサーファーや一人乗りのカヌーの風景を目の前にしながら、コーヒーを飲む。昔はこの海岸も、ほとんどが海水浴の人たちで混んで、海が見えないほどの人出だったが、あまり泳ぎの人の姿は、この時間にはまだほとんど見えなかった。



それも逗子八景の一つといわれる披露山公園で愛犬を遊ばせたいのが目的なのだが、この公園の駐車場が午前8時からしか開かないから、時間待ちのようなものだ。8時を過ぎると、日射しは一層強くなり、コンクリートの舗装の上では愛犬の足が暑そう、という程。ここからの眺めと海からの風が好い。



この公園から、湘南のビバリーヒルズと称される住宅街を通り抜けて、もう一つの大崎山の公園まで歩く。途中には松嶋菜々子、反町夫妻の豪邸や、ソニーの大賀さんの家など、表札のある家、ないけれど監視カメラだけがやたらに動き回る家など、さまざまな表情を見せる。年季のいった鶯の聞かせる声が聞こえたり、トンビが囀ったり。なかなか風情がある。



大崎山の頂上からは、小坪のマリーナや佐島マリーナが間近に見え、ヨットの白い帆と、こちらでも波を待つサーファーが蜘蛛の子ほどの大きさの黒い点として見える。思ったほどには台風の余波は少なそうで、江ノ島側にだけかなり高い波が押し寄せる様が、遠目にも白い波頭の移動で見て取れた。

2007年7月14日土曜日

COSTCOへ行きました

台風4号は、依然強い勢力を保ち続けて、北上しているようです。
被害の出ている地域の方々、お見舞い申し上げます。

関東の今日は、本降りにはなったものの風はまだなし。
連休の初日になるようで、連れ合いに強要されて、川崎にできたばかりのCOSTCOへ出かけた。

「コストコホールセールは、高品質な優良ブランド商品をできる限りの低価格にてご提供」する会員制倉庫型店舗です」とHPにある。

コストコ社のはじまりは1976年、カルフォルニア州サンディエゴにある飛行機の格納庫を改造して作られた「プライスクラブ」という名前の倉庫店でした。一方、1983年には「コストコ」の最初の倉庫店がワシントン州シアトルにオープンしました。コストコは、アメリカ国内において創業後わずか6年未満でその売上をゼロから30億ドル(約3,000億円)までに達成させた最初の会社となったのです。1993年には「コストコ」と「プライスクラブ」が合併して一つの会社になり、「プライスコスコ」という名で206倉庫店を有し、年間160億ドル(約1兆6千億円)を売り上げました――というのが、その歴史。

川崎には12日に日本で6店舗めのオープン。産業道路に接した、いかにも倉庫という店舗の駐車場には、入場する自家用車が長い列をつくっていた。店内に入るには、会員であることを証明、店から出る際には会員証、領収書と搬出する買い上げ品のチェックがある、という「万引き」を前提にしたような変な仕組みだ。それも、どうやら会員制のメリットを引き出す方法の一つではあるようだが……

店内に入ると、ともかく天井の高いのが印象的だ。通常のスーパーの店舗を見慣れた目には、その高さは1.5倍から2倍の高さに見える。その天井に向かって、粗く仕切られた展示の棚が数段積み重なる。店舗の建物が打ちっぱなしの構造だとすれば、その品物の展示も日本風のきめ細かさなどとは無縁、無造作に荷解きだけして置いてある、との風情だ。

客層は、圧倒的に若いカップルと子供。たまに若夫婦に連れ添われたお年寄りの姿が見られる程度。
従業員は、恐らく意識してなのだろう、いかにもアメリカ西海岸の人種のにおい、化粧。

なにが一番困るかというと、巨大な売り場の中でトイレが1箇所しかないこと。女性用だけでなく、珍しく男性用のトイレに長い列ができ、日本では必ず苦情がでるだろう、という感じ。

売り場でボーっと立っていると、あちこちで「パパー」「ママー」の声。子供が父親や母親に声をかけている訳ではない。母親が連れ合いを呼んでいたり、父親が……、という図なのだが、どこのママが、どこのパパに声をかけているのか分からないだけに、しょっちゅう自分のことか、とキョロキョロ。どうして日本では、連れ合いのことを、お互いにパパ、ママと呼ぶのだろう。だれのことなのか分からぬ掛け声は
止めてもらいたいものだ。

2007年7月12日木曜日

Chagaleの笑顔

シャガールの正しいスペルはchagall。 そうしたいところだけれど、ちょっと変えてchagaleがblogネーム。人生72年説をとって、その日まで後10年余り。落ち逝く落日を激しく燃やしてみるか……。と、思わないでもないのですが、まだ会社員生活の延長線上。せめて「笑顔」の話でも。仏教で「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えがあるようです。財はなくともできる「布施」=施しが7つある。優しく暖かい眼差しで周囲を明るくする「眼施(げんせ)」などと共に「和顔悦色施(わげんえっしょくせ)」というのがそれ。優しい微笑をたたえた笑顔で人に接すること――。せめて、そんな笑顔が作れるような話が綴れれば良いな、と思います。