2020年6月10日水曜日

キョウチクトウ


梅雨入りも近いのだろう。「時の記念日」という10日、東京都心で32度、関東から北でも35度の猛暑日となるなど、暑さの警告。横浜では、強い東風で気温は29度を下回り、籠っているには湿度も低く、しのぎ易かった。それでも近畿、東海地方まで梅雨入りとか。あすにも関東辺りも湿っぽく雨となる予想。

あちこちのキョウチクトウに花がつき始めた。白がまず目につき、ピンクの花もボチボチ咲き始めている。葉がタケに似て、花がモモに似ていることから夾竹桃の和名があるのだという。公害に強く、川崎市では他の樹木が枯死したなかで街路樹として成育。また原爆で「75年間草木も生えない」といわれた広島で、被爆焼土にいち早く咲いた花として、原爆からの復興のシンボルとなり広島市の花に指定されている。その反面、このキョウチクトウ、強い経口毒性があり、野外活動の際に調理に使ったり、家畜が食べたりしないよう注意が必要なのだという。花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性があり、生木を燃やした煙も有毒。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する、というから気を付けなければならないようだ。  

国会では、前日に続いてコロナ禍対策の第2次補正予算をめぐって、衆議院予算委員会での質疑。国民民主党の玉木雄一郎代表、共産党の志位和夫委員長らが質問に立った。経産省の持続化給付を巡る委託の疑惑に、梶山通産相は業者公募の前の業者、つまり電通なり協議会との交渉記録を国会に提出すると表明。それにしても、スッキリとしないままに、委員会は予算案を可決。野党が対案として出した予算案の組み替え動議の案の方に、原案よりは分がありそうだったが、NHKの中継は質疑一巡で打ち切り、同議案などの中身は目にふれないままだった。

自民党は、補正予算が可決すれば、国会を閉める算段と伝えられる。国会の周りのデモの声が委員会室まで聞こえた。「安倍やめろ」「国会止めるな」。この日、沖縄・那覇地裁は、森友・加計学園問題の疑惑解明を求めて、2017年6月に野党が要求した臨時国会の召集を安倍内閣が3カ月以上放置したのは憲法違反として、当時の沖縄選出の国会議員4人が国に損害賠償を求めた訴訟の請求を棄却する判決。踏み込んだ憲法判断は行わないままの棄却だったという。

60年前の1960年(昭和35年)のこの日の羽田空港周辺には日米安保改定への反対のデモ隊が詰め掛けていた。19日にも予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官(当時の報道表記は「ハガチー新聞係秘書」)を迎えた車は、デモ隊に包囲されて動けなくなり、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生。いわゆる「ハガチー事件」。これでアイク訪日は中止となった。この後、15日には国会突入のデモ隊と警察官の衝突で、参加していた東京大学学生の樺美智子さんが圧死する。安保反対の運動の熱点が頂点を迎える。

62年(昭和37年)のこの日、北陸本線の北陸トンネルが開通している。13k869m。当時日本最長のトンネルだった。10年後の72年(昭和47年)11月、このトンネルを通過中だった急行「きたぐに」の食堂車で火災が発生し、30名の犠牲者を出した。

90年(平成2年)には、ペルーの大統領選挙で、ペルー移住日系2世、アルベルト・フジモリ氏が当選した。フジモリ氏は両親が熊本県出身で藤森謙也という日本人名を持ち、ペルーと日本の両方の国籍をもっていた。政治家としての経験はほとんどないままの大統領就任だったが、「センデロ・ルミノソ」などのテロ組織の掃討や、経済改革でペルーの貿易額を大幅に増大することに成功。そんな中、国家再建をより強力に推進するため、憲法一部一時停止措置を発動。96年12月の日本大使公邸人質事件に当たっては、ペルー軍コマンド部隊が公邸に突入して解決したが、フジモリ大統領の独裁的権力に対する批判は次第に高まっていった。さらに公金横領などの疑惑をかけられたフジモリ氏は日本へ亡命。ファックスで大統領辞任の意をペルーに伝えるという行為は、後に「恥ずべき辞任」と言われた。それでも2005年、再び大統領選出馬のためにペルーへ向かう途中、フジモリ氏はチリ政府によって逮捕拘束され、ペルー政府に引き渡されると、バリオス・アルトス虐殺事件(ペルー軍特殊部隊による民間人殺害事件)の任命責任などの罪に問われ、禁固25年の刑が言い渡された。

2010年4月10日土曜日

花吹雪


花吹雪は美しい。花が自分の重みに耐えかねて、やってきた風に身を任せる。
クルクルと、花びらは輪舞をしながら、風のリードで舞う。

その一瞬を、カメラで捉えたいと思いながら、なかなか目で見たようにはいかない。
花びらはシャッターを通じて、フとその姿を光りの中に隠してしまう。
背景が黒くなければ、その姿は失われてしまう道理だ。

東京国立博物館の法隆寺宝物館の前。
全面ガラスの正面に、池の上を風が流れ、花びらが躍った。
ガラスに表慶館の背中と、やわやわと風になびくヤナギの長く青い葉が映り込んでいる。
宝物館の闇から出てきた人も、思わず繰り広げられる花弁のページェントに空を見上げた。
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2010年2月27日土曜日

春は貝

春の訪れの楽しみの一つが
 美味しい貝との出会いだ。
 
 ホッキ貝は、そんな一つ。
 こぶし大の貝が3つで半値の250円。
 これは買って帰るに限る。

 家に帰って念のため、
 ホッキ貝の捌き方をネットで確認する。
 昔は、そんなことはなかった。

  ホッキ貝をまず、水をはった器につけてやった。塩水の方がよいのかもしれない、
 貝がホッと息を吸い、心持口を開く。ゴミも出してくれればもっと良い。殻を洗ってやる。
 貝の合わせ目に刃物を咬ませる。端の方にそっと探り入れると、至極簡単だ。
 
 貝柱を切ってしまえば、口を開く。ヒモも含めて取り出し、ちょっと熱湯を潜らせ、
 すぐに冷水にいれてやる。ほんのりと身が赤みを帯びるのがうれしい。
 
 一番肝要なのが、ちょっと厚めなところを開いたときに見える黒いフンのようなものを
 取り除くこと。これだけは忘れてはいけないようだ。
 3つの貝を捌いて、実はそれだけでなく、ホヤも手に入ってしまったので、これも始末した。
 これも半値で100円。漁師さんは、こんなに安値で大丈夫なのか、と心配しながら。
 
 両方を日本酒で食べ始めたら、酒が進むこと。
 因みに、この日の酒は、大阪は池田の呉春。すっきりとして好みの酒。
 ちょっと仕合せな夜だった、
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2009年7月12日日曜日

ムール貝


突然ながら、スーパーでムール貝を買った。

先日、あさりを買って帰って、酒蒸しをしてみたら、

案外、うまくできたので、つい味をしめた、というわけ。

とはいっても、同じ貝でもあさりとムール貝では、

ちょっと勝手が違う。買ってしまってから、WEBにレシピを求めてみた。


いろいろとあったが、http://www.chez-mikawa.co.jp/belgiancooking2.html/[このベルギー料理]の案内が親切だった。材料を調べてみたが、家に白ワインがなかった。ままよ、日本酒だって、何かできるだろう。セロリはあったが、パセリはなかった。玉ネギはあったし、にんにくもあった。

一番びっくりしたのは、「ムール貝の掃除」だった。あさりと同様に、塩水に少し泳がしていた貝だが、案内には、次のようにあった。「ふつうムール貝には中からひげが出ています。ひげは必ず、貝の付け根のほうから口のほうへ引っ張って取り除きます」なるほど、ヒゲが生えている。これには気がつかなかった。ひげを抜きおわったら、貝殻の表面についている、藻や苔を、貝の口先で削り落としきれいにします――。

なるほど、このようにお手入れをすると、いかにも磯臭い臭さが消えていく。なべにバターを入れてとかす。用意した野菜をすべて入れて混ぜる。ここでレシピになかったが、オリーブ油を使ってみた。

野菜がしんなりとしたところでムール貝を加え、白ワインのかわりの日本酒と水を加えて蓋をしました。強火で2-3分。なるほど貝の口が開いてきた。火を通しすぎないうちに止めて出来上がり。

食べたら結構いけた。また、やってみよう。ワインを用意して

2008年12月23日火曜日

2008年7月2日水曜日

未央柳


梅雨の合間に
気にかかるのが未央柳だ。

雨の中で咲くアジサイの爽やかさに比べても
この未央柳は晴れ間にパッと明るく目を射てくる。
雄蕊がたくさん、しかも長く伸びる様が
より艶やかさを感じさせるのだろうか。

名前もいろいろに呼ばれる。
未央柳は、ミオウヤナギと読みそうなのに
ビヨウヤナギとわざわざ訓が振られる。
美容柳などとも書かれる。

中国から約300年前に渡来したのだそうだ。
金糸桃と呼ばれ、白楽天の「長恨歌」にある、という。

伊藤忠林業さんの「木になるはなし」という
ページによると次のようなことだ――。
http://www.itcringyo.com/column/column37.html

太液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ

と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、
太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて
未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を
この故事になぞらえて"未央柳"と呼ぶようになったと考えられます。
あるいは花が美しいことから、"美容柳”とも表されます。

――なるほど、楊貴妃か、と妙な感心をして、納得してしまう。
唐の王朝ロマンに思いを馳せて……

2008年4月13日日曜日

36回目の結婚記念日


長い時間だったのか、
歩いてきてしまった今日、
短かったようにも……。

考えてみれば、
この伴侶との出会いは
16歳の時であったから46年。
かれこれ半世紀=50年に近くなる。

いろんなことは、あって当然。
当然のことで、いろいろあった。
そして、この先も、どれくらいかは別にして
一緒にいることだろう。

「記念日」は、祝わなければならないか――
どうしても祝わなければならないこともあるまい。

テレビのCMのようなことも、
歯が浮くようで、ようしません。
気持ちがないわけではないけど、
ようせんのです。
それだけです。

まずは、これからの何年になるのか、
お互いの歩きたい道を、
それぞれの距離で付きつ、離れつ……

無事であることが第一なのだけど、
それにも、事は起きてくるのでしょう。
その時のことも、どこかで覚悟をしながら……

飼っている犬だって、
突然に何が起きることか分からない。
人も犬も。頑張ってやっていく記念日にしよう

2008年3月20日木曜日

地下鉄サリン事件から13年

13年前のきょう(3月20日)は、月曜日だった。
朝からドンヨリした、いかにも春先の薄ら寒い日だったように記憶する。
JR新橋の駅を降りた頃から、街中にあちらこちらで救急車のサイレンが一斉に鳴り、コンクリートの街で反響が増幅され、鳴り続けていた。状況は良く分からないが、一報は「地下鉄築地の駅で爆発騒ぎ」とか、情報は錯綜していた。

発生は午前8時半、地下鉄の霞ヶ関へ向かった地下鉄の列車が狙われていた。次々に入る列車が一斉にサリンの惨禍に見舞われ、権力中枢の霞ヶ関を地獄に、という絵が描かれていた。

テレビは各局(NHKの教育テレビを除く全局だったそうだ)、一斉に地下鉄の各駅付近からの実況中継。地下から地上に助け上げられ、救急車を待つ被害者たちの映像を流し始めた。築地の聖路加国際病院が中核的な受け入れをして、どうやら事件の核心が「サリン」という化学物質であることが分かってきた。

前の年の6月、長野県松本市で発生したサリン事件の記憶はまだ新しかったが、この事件は冤罪事件として記憶され始めたものの、現実感のない事件であった。身近にこの事件で息子を亡くした同僚がいたことが、他の人よりは現実的な印象は残しながら……。

この年は、1月の阪神淡路の大震災で明け、経済も一向に明るさが見えない。そこに、このサリン事件だった。何か表現しがたい、恐ろしいことが、まだまだ続いて起きるのではないか、という恐怖が湧き上がってきた。さらに3月30日には警察庁長官が自宅前で狙撃される、という事件も追い討ちをかけた。

オウムというオカルト集団にメスが入ったのは、地下鉄事件の2日後、警察庁長官狙撃は、オウムが犯行によって、オウムから目をそらさせようとしてのことだった。第6サティアンから教祖が引き出されのは、暑くなり始めた5月半ばのことだった。

40年余り前、「邪宗門」という小説が高橋和巳によって書かれた。戦前の大本教がモデルといわれ、国家権力の弾圧の前に、世直しの教義が示され、滅びていく、というものだったが、それとは異なる、現実にこの世に終末を呼び込もうとする邪宗を感じたものだった。

その後、ニューヨークでは01年の9・11事件。アル・カイーダという原理主義グループの犯行。宗教とは、人を救いもすれば、世界を破滅させることもある。そのことは、決して終わることのない現実なのだろう。

2008年2月3日日曜日

名作と地下水道

名作の映画、というのは、何度か見直して、また新たな発見がある。

3日、たまたま観ていたBSで「第3の男」を、途中から観た。
有名な観覧車の中でのハリーと主人公の小説家、ホリーとの出会いの場面だった。
その後、ハリーを警察に売ることで、ハリーの恋人アンナをウイーンから脱出させようとするが、駅頭でホリーの姿を見かけ、不審がって乗った列車から降り、ホリーを詰る場面。
そして、もっとも有名なラストシーン。並木道がシンメトリーな形を作る、墓地からの道。アンナが遠くから近づいてくる。待ち受けるホリーに眼をくれず、前を通り過ぎていく。「やってらんないね、この女」とは言わぬが、そんな声が聞こえて来そうな仕草で、ホリーが、タバコにつけた火を放り投げる……。

途中、ハリーが逮捕されるまでの、光と影のドラマが改めて印象的だった。
キャロウエー少佐らが待ち伏せする街角の喫茶店。廃墟の街に、風船売りがやってくる影が大きく、大きく写る。どんな大きな男がやってくるのか、と息を呑みながらみていると、それは肩に括っていた売り物の風船の束が作った影だった。

喫茶店の裏口から店に入り込んだハリーは、警察の部隊に追われ、地下水道へ。
地下水道は、巨大な下水道だ。いまでこそ、東京の地下にも、雨水を逃すための巨大な下水道が掘られているが、こんな下水道が100年も150年も前からできている欧州の大都市の基盤整備の底力には驚く。

地下水道といえば、アンジェイ・ワイダ監督の「抵抗三部作」の一つ、「地下水道」(1956) でも登場した。第二次大戦末期、ドイツ占領下で蜂起したレジスタンスの部隊の話。河の向こうまでやってきたロシア赤軍と示し合わせての蜂起の筈だったが、戦線は思わぬドイツ軍の戦力の建て直しと、ロシア軍の足踏み、停滞の前に、レジスタンスはナチス軍の前で行き場を失う。迷い込んで脱出ができない、というレジスタンスの置かれた状況を映しながら、まさに下水道が舞台になった。敗退して四散した部隊は、そのままでは全滅するのがみえている。本隊に合流するには、地上での軍行動で突破は困難、として地下水道にもぐった。発狂する文学青年や裏切り。やっとのことで出口をみつけるのだが、そこにはまばゆい陽光をみせながら鉄格子が無情にも……。

もう一つ思い出すのが、有名なパリの地下の下水道を舞台にしたジャンバルジャンの物語。「レ・ミゼラブル」。瀕死の重傷を負ったマリユスを背負って下水道を通り、バリケードから脱出する、というくだりがある――。

このパリの下水道には、わざわざパリを訪れたときに潜ってみた。
見られるのは、毎日ではなく、毎週であったか、隔週であったか、確か水曜日の午後の1-2時間。恐らくは、お役所仕事の一環であったのだろうが、結構、そんな酔狂な旅行者というのは、世界から集まるもので、私が行った30年も前のそのときも、時間には参観を待つ長い列ができていた。
その時の、印象は薄れてきているが、思ったほどには汚く臭くはないが、決して綺麗でも良い匂いがするわけでもなかった。地下水道には参観者用の歩道が整備されていた。当たり前かもしれないが、この施設も観光資源の一つであったのだから。

ウイーンにも出かけたが、このときには旅程も慌しく、地下水道を見学するまでの時間はなかったが、名作に出会うたびに、そんな経験を思い出したりするものだ。

2008年1月31日木曜日

日本画と西洋画

「絵画」は、日本の美術の中で、「日本画」と「西洋画」に分けられる。美術展から、制作グループまで、この色分けは徹底しているかに見える。

では、それは何によって分けられているのだろうか――。見方によっては単純な疑問に、当の「日本画」の作家が答えてくれた。今月19日午後、六本木の国立新美術館の会館1周年記念の特別講演のトークセッションでのこと。

美術史家の高階秀爾氏の「日本と西洋・近代美術の100年」の講演に続いて、日本画家として紹介された内田あぐり、畠中光享の両氏がゲストとして加わってのセッション。特に、テーマがあるわけでもなく、作家としての両氏の製作者としての歩んできた道や美術、中でも西洋画に関しての受け止め方、のようなことが高階氏の司会で話された。

乱暴に端折っていえば、どうやら「日本画」「西洋画」を分けているものは、詰まる所、絵を描くのに使う「絵の具」、その素材にあるようだ。それと大学・アカデミズムの中にある「日本画学科」「西洋画学科」という二分法。「学科」に入学したところから、顔料を使う日本画と、油を使う西洋画に分かれる、ということらしい。

もちろん、制作は理念だけでなく、すぐれて技術であるわけで、内田氏が「自分が『美』だと思うものを、たとえば日本画の技法としてある垂らし込みの技法に墨を使う、といったことがピッタリする。油を研究する時間がない」というのも確かなのであろう。

伝統というのは、それが辿ってきた歴史であり、そこに込められてきた時間、技法への探求の深み、厚みということなのかもしれない、と思った。

2008年1月7日月曜日

あれから20年

あれから20年がたったのかと思うと、
昨日のことであったようにも、
もう1世紀も前のことであったようにも思える。

午前6時過ぎに、自宅の電話のベルが鳴った。
慌ててラジオのボリュームを大きくすると、
天皇の容態は尋常ではないようだ。
もうすでに、事態はさらに進んでいるのかもしれない。
すぐに出社を求める電話だった。

取るもの、着るものもとりあえず、
タクシーを呼び寄せ、皇居へ向かった。

7時半過ぎから侍医が大講堂で会見を行った。
次から次へ、儀式は進行していった。
しかし、待つ時間の長かったこと。

午後からは、当時の内閣官房長官が会見した。
左手に「平成」と縦書きした色紙を持ち、
「昭和」の次の年号が「平成」と決まったことを示した。
小渕さんの顔が、なぜかはにかみながら笑っていた。

その日からの服喪。
テレビは、延々と昭和天皇の回顧の映像を流し続け、
歌舞音曲が消えたのだった。

あれから20年。
すでに歴史の一齣になってしまったのだろうか……。

2008年1月4日金曜日

プール

世の中、仕事初めの4日、横浜・鶴見のプールへ出かけた。
目の前に横浜ベイブリッヂが見える埠頭のプールサイドだ。

日ごろ、運動といえばテニスを週に1-2度のペースで、この10年ほど楽しんできた。
昨年の9月、テニス・エルボーというのだろうか、肘を痛め、その後、いろいろな療法をためしているものの、いまだ思うような回復をみていない。だから、半年まではいかないまでも、この間、運動らしい運動から遠ざかっていて、仕事場がかわったことや、パソコンに向かい合う時間がこれまでよりも増えたことなどから、肩や腰の凝りなど体のあちこちがゴリゴリ、がたがたになっている昨今だ。

去年暮れから、このままではいかん、と水泳を思い立った。
なにもオーバーなことを考えているわけではない。別に急に遠泳をするわけでもない。水の中を歩いているだけでも、立派な運動になる、と。

プールは、25mのプールをはじめ、流れるプール、ジャグジーなど、いろいろな楽しみ方ができる。
高齢者用に大浴場も別料金で用意がされている複合施設。
意気込んで出かけたものの、25mのコースをさて、何本泳げたか。平泳ぎ、背泳など、決してスピードを競うものではないが、体の凝りがほぐれた。

やはり、体は動かすに如くはないようだ。

2007年12月25日火曜日

クリスマス・イヴ

東の空にまん丸の月が出た。
クリスマスイヴと満月、それに火星の赤。
今年はそんな取り合わせができたらしい。

特に何もなかったイヴだった。
積年、たぶん今年だけでないから、積年のリヴィングの集積を片付ける作業をした。
手元にあった本を整理することも、その大きな部分。
これを束にして、一応は頂いた本などは、これを改めて記録して、括った。

束を車に積んで、古本屋へ行こうとした。
ガレージの2段式のパレットを引き上げ、見ると、床面にどうもオイルが大分こぼれ濡れている。
やばそうな感じがしながら、エンジンキーを回す。エンジンはかかった。
ゆっくり前進、ハンドルを右に回してみると、日ごろは感じないギシギシといった音。
ハンドルが重い――これは、いかん。

マニュアル片手にボンネットを点検するが、エンジンオイルがあまりない感じはするが、
エンジンはかかったし……。下手の考え、休むに似たり。
今年7月に、確か10年目の車検を受けた販社のサービスカウンターに電話する。
「エンジンはかかるんですね。車検のときにオイル漏れがあるのでは、という点は
チェックしていたんですがね。オイルがこぼれているという色はどんな色ですか?」

結局、エンジンオイルというよりは、ハンドルなどを軽くする油圧系統のオイルが
漏れている可能性が強そうだ、とのこと。
自走することが可能か不明なので、JAFに電話することにした。
JAFを待つこと1時間余り。結論はやはり、ステアリング系統のオイル漏れ。
自走してエンジンを焼ききるようなことがあっては損ですから、と牽引してもらうことに。

横浜市内の販社工場まで牽引してもらい、検査。
結論は、ステアリングなどの油圧系統のオイルの送り元付近のチューブのゴムに
緩みが見つかったということだ。締め付けをしておしまい。
無代でオイルまで入れてくれた、というのは、工場が先の車検時の手落ちを認めたということか。

やっと自走して家まで戻り、改めて古本屋へもって行く本を積み込む。
横浜・鶴見駅近くの古本屋さん。業界に加入していることで、
以前にも一度、本を持ち込んだことがある。
月曜から土曜までの営業で、日曜日は定休。祝日は10時から8時とHPにあったので7時前に着いたが、ちょうどシャッターをすべておろし終えたその時だった。
出直すことも面倒なので、シャッターを叩いた。おじさんが車まで見に来てくれたが、
「全部まとめても1000円くらいしか出せませんが良いですか」
値段をいうつもりはないので、それはOKなのだが、
研究者がいれば有用かもしれない、と一束つくっていた文部省の指導の手引きや、
各種機関の機関紙などの山について「これは一般ごみに出してください」といわれたのは、
いささかプライドを傷つけられた思いだった。

意地でも、だれか研究者を探して、譲ってやる、と思ったものだ。

帰りがけの東の空、そこにポッカリト浮かんだ満月。結局は、それだけのことだった。

2007年12月2日日曜日

墓参り

父の墓参りに出かけた。
師走も2日。天気は良し。好天のうちに、墓参りはすますべし。

数えてみると、4日で父が亡くなって満12年。ということは、13回忌ということになる。
仏教界での数えの話だ。だからといって、墓参りと法要とは関係ない。
考えてみれば、葬式も無宗教で執り行った。

先祖を遡ってみれば、私からいって祖父の代、というか、
その父親の代まで、どうやら仏教のお寺さん、つまり坊さんだったようだ。
いまでも、そのお寺は福岡の在にある。
真宗大谷派金吟山信教寺、というのが確かそのお寺。

祖父は、大学を二つ出て、新聞記者になった。
お寺は、妹に婿をとって、後を継いでもらった。
そして、その息子、つまり私の父は、あえて仏式の葬式を求めず、無宗教を望んだ。
そういえば祖父の葬式は、仏教で行われたようだが、
長男夫婦をはじめ、クリスチャンで、お骨はどこへ納められたのか。

葬儀の変遷というのは、大袈裟に振りかぶれば、社会のありかたの変遷だ。

「家」がしっかりしていた時代、葬儀は「家」の格式に則り、その枠で執り行われた。
社会に「会社」が根を下ろし、人びとが「家」から「会社」の呪縛に囚われはじめ、
「会社」の存在が大きくなるにしたがって、葬儀に「会社」が大きく関与をし始めた。

「社葬」が、それだ。

「社葬」は、やはり「会社」という社会のなかでその序列を再確認したり、
再構成をするうえでの大きなモメントともなった。

「親戚代表」「葬儀委員長」……。
葬儀を執り行うに当たっての「要」であり、中心である人、その役割には大きな存在感があった。
そういう時代が長く続いた。

ある時から、葬儀が逆のベクトルを辿り始めた。
「葬儀は近親においてあい済ませ」るケースが、増え始めた。

死亡広告のパターンというのは、やはり時代の変遷とともに変わってきている。

「無用な会葬は不要じゃ」

心になくとも、葬儀に参列する、ということが、
本当に不要であったり、無駄なことであるのか否か、議論はあろう。

「千の風になって」私の骨は砕いて、太平洋に撒いて欲しい……
葬儀を含め、自身の死後をいかにしてほしいのかそれは、
だんだんと死に行く人の、自身の処分を含めた希望であり、権利になりつつあるようだ。

理屈は別にして、今日は静かに晴れ、野の枯れ具合も美しく、
自然はかくも華やかな初冬を演出するのだ、と思わせた。

もう後、何年、墓守をして、墓参りができるのか。
そんなことも思い始めた、今日この頃ではある。

2007年10月14日日曜日

「小顔」ということ

いつの間にか、日本の女の子たちは「小顔」になっているようだ。
小さな顔、長い手足……。一昔前に比べても、その形は大きく変わっているように思える。

「小顔」などといっても、はっきりした定義がある言葉でもなさそうだ。
小さな顔は、何に比べて「小さい」のか。どれくらいの比率以下が「小顔」なのか……。
それでもネット上には「小顔になれる基礎知識」であるとか「小顔美人になるこんな方法」などというサイトがずらりと並んでいる。

「小顔」という言葉は、「アムラー」を生んだ安室 奈美恵が登場した12年位前以降の 流行のように思える。それ以前にも 「小顔」の人がいたに違いないが アムロのファッション・リーダーとしての茶髪ロングヘアー・ミニスカート・細眉・厚底ブーツなどの総体として、この時代以降に「憧れ」の対象としての言葉が定着したようだ。
因みにアムロは身長158cm、40kg。スクリーンからの印象より、小柄だといえそう。



かつて「八頭身美人」という言葉があった。
1953年(昭和28年)に伊東絹子がミス・ユニバースの3位になった時、彼女を称していった言葉で、流行語になった。当時の彼女のサイズは T-164cm, B-86W-65, H-92とのことで、当時の日本人としては大柄な、西洋的な体形の美女だったらしい。


ミス・ユニバースでは、その後、1959年(昭和34年)に児島明子が優勝している。身長168cm、体重55kg、スリーサイズは93、58、97cm。今年07年の優勝者、森理世さんは身長170cmだけしか不明。

そんな中で、「ツイギー」というイギリスのモデルが日本へやって来たときを思い出す。
名前の通り、全身が「小枝」のような印象で、小顔、手足は細く、長かった。
1967年(昭和42年)のことで、彼女が身に着けて上陸したミニスカートは全世界を席巻する。
日本では彼女がやってきた10月18日を「ミニスカートの日」としている。
40年前のことだった。

2007年9月20日木曜日

やっと初孫

待望の「初孫」が、やっと生まれた。
娘は「生まれた」でなく「産んだ」と主張するが……。
予想通り、男の子だった。


予定日から遅れること12日。
「もう生まれるかも」と訴え初めてから約一ヵ月かかった勘定だ。
その「甲斐」?あってか、体重は3,516g。いや、立派な体重だ。


恵比寿、中目黒と代官山のトライアングルのほぼ中心にある産院は、自然分娩を旨としている。それでも、そろそろ促進剤を、と予定していた19日早朝、娘に産気が訪れた。「産出」は昼過ぎのことだった。


誕生の知らせを聞いて、産院に行って見ると、畳敷きの和室の布団の上に、赤ん坊は寝ていた。
お包みの中から、赤ら顔が見えた。
赤ん坊は本当に赤い。なのになぜ、嬰児<みどりご>というのだろう。
などと愚にもつかぬことを考えながら、赤ちゃんの顔を見ていると、
どうも私と私の母親に、どこか似ている。目の下に袋ができそうな顔だ。
ちょっと、お地蔵さんにも似ている。
余り、大泣きもしない、大人しい子のようだ。
賢い、賢い、というのは、すでに爺馬鹿というやつだろうか。

娘の出産に付き添っていた婿さんは、早速、
8ミリならぬデジタル・ムービーを回していた。
なんと、出産直後のシーンから、映し出されていた。
世の中、どんどん出産の風景も変わっているものだ。

ともかく、母子とも無事での出産。なによりの幸せというべきだろう。

2007年9月6日木曜日

台風と予定日

台風9号が北上している。
このままでは、首都圏を7日未明にも直撃する勢いだ。

その7日。娘の出産予定日だ。
35歳での第1子で、半月ほど前から
「もう産まれるかも」の大騒ぎが続いている。

結局は、予定日の周辺に産まれることになるのだろうが、
大事をとりすぎて、家でゴロゴロでは、最後は産まれない。
2時間程度は歩きなさい、との先生のご託宣に
家の周辺を歩いたり、しているのだが、
「一人では、何かあったら心配」とは
なかなかに我侭に育てていまったものだ。

というわけで、夫を含め、家族が変わる変わるで
散歩や午後の時間を過ごすのを受け持ち、
私も昨日、お当番に出かけた。

何をして時間を過ごすか。
いずれにせよ子どもの出産は、ほかのことと同じで
待つより仕方がないのだから、
その待つ時間を、どのように過ごすか、だ。

昨日は、近くにある東京都庭園美術館を訪ねることにした。
以前の迎賓館。白金の自然教育園のすぐ隣にある。
ちょうど、ロシアのバレエなどの足跡を展示する
「舞台芸術の世界」展が行われていた。

庭園美術館は、もともとは
朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう、1887年-1981年)が
1947年の皇籍離脱(実質的な臣籍降下)まで暮らした邸宅で、
1933年(昭和8年)に竣工した、当時流行のアール・デコ様式を採用した建物で、
東京都の有形文化財に指定されているものです。

美術館の建物自体が美術品で、その建物の中にいるだけで、
気分が落ち着く所である。
展覧会の方は、バレエの歴史を知っていると、もっと
理解が深まるのだろうが、それはそれなりに楽しめた。

断続的に激しく降る雨の中、庭園の緑が一層深く
芝生に2つづつ置かれた彫刻のベンチが可愛らしく存在を主張していた。

さて、「予定日」は無事に出産日になるでしょうか。
なんとか無事に産まれてくれれば良いと祈るばかりです。

2007年8月28日火曜日

「ミシュラン」の命日

きょうは、うちの「長男」の1周忌、命日だ。
「長男」の名は、「ミシュラン」。オス9歳のチワワだった。

去年のこの日も、暑い一日だった。
前の晩から、「ミシュラン」は吐く息が苦しそうだった。
横になることができないらしく、時々苦しげに咳をしていた。
風邪というのではなく、心臓に疾患があったのか、肺に水が溜まり、
呼吸が苦しげなことが、段々に増えてきていて、早めに病院に連れていこう、
と言っていたところだった。

朝になった、妻が動物病院に連れて行った。
「余り、調子が良くはないみたいだけど、夕方には連れて帰れそうだ、と
お医者さんはいっている」との話だった。
夕方、少し早めに帰宅する途中、妻から連絡が入った。
「どうも様子がおかしいみたい。急いで来て欲しい」と病院からだった。

十数分後、動物病院に着くと、妻は受付のソファで、
毛布に来るんで横たえたミシュランを抱えていた。間に合わなかった。

「ミシュラン」は、下の娘が中学三年で、学校へ行けず、自室に籠もり始めた頃、
通学路にあったペットショップから、「たっての望み」で買入れた。
これまでは平屋に住んだときにウサギなどを飼ったりしたが、
現在はマンション住まいでもあり、ペットも亀どまりだった。
果たして、マンションで飼うことができるか、ちゃんと飼育ができるか――。
そんな諸問題も、少しづつ解決していった。

ちょうどチワワのウルウルとした眼が、サラ金のTVコマーシャルで一躍、
ブームを呼び始めた頃。娘の躾よろしく、生来のおっとりとした性格のミシュランは
家中の欠かせない一員となっていた。

ミシュランの死は、飼育の中心になってきた娘と妻にとって、
形容し難い苦しみであり、悲しみであった。
亡き骸は、その週末、一家で野尻の山荘の地中に埋葬した。
カラマツやカエデなどの葉が積み重なった腐葉土の中、
ミシュランが好きだったウシの縫い包みなどと一緒に……

それから数ヶ月、妻もミシュランと散歩に出かけたコースを歩くことができず、
散歩で出会った犬友達と顔も会わせたくない、と閉じこもり勝ちであった。
「次のイヌを飼ったら」というアドバイスもあったが、
「ミシュランが死んだからといって、すぐにゲーム機を買い換えるみたいにはできない」
と寧ろかたくなな心は開かなかった。

今年の初めになって、妻と娘が、やっとペットショップを覗きに出かけるようになった。
やはり、いままで家の中にいた友達が急になくなった、との喪失感を癒すのには
代わりにはならないまでも、ペットに如くはない――。

上の娘が急遽、結婚をすることになり、一段落した5月の連休。
家に帰ると、小さな白い物体がゲージの中にいた。

2代目のチワワ。今回はメスだった。11月に生れた5人?兄弟の妹分らしい。
川崎の国道1号線沿いにあるペットショップだが、こじんまりした店で
飼っているおばさんの躾け方も気に入っての決断だった。

前回、ミシュランの時の命名者は、下の娘だった。今回も娘は
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくる
「幸いの竜」フッフールを付けたかったらしい。
しかし、「白い」イヌの白さにこだわった父親や上の娘が
白い酒「マッコリ」などと茶々をいれ、白いのに妥協して「ルー」と名前がついた。

先日、信濃町に出かけた際、山荘のミシュランの墓に詣でた。
思わず、埋葬した地面は、ミシュランの犬形に沈み込み、
自分の存在を主張しているかのようだった。
持って行った花を植えてきた。

ミシュランが4キロくらいはあったのに、ルーは2キロほど。
そのかわり思わぬほどのすばしこさを発揮する。
ミシュランを悼みながら、いまではすっかりルーが仲間だ。

2007年8月20日月曜日

やはり胡弓の音



九月、というと、「セプテンバー・ソング」の前に、
風の盆の胡弓の音を思い出す。

私が越中・八尾を訪れたのは、もう何年前のことか。
多分、二十年ほど前にもなろうか。

ちょっと夕方にかけ小雨が通り過ぎて、列をなす鳥追いと浴衣姿の踊り手たちと、
三味と胡弓の弾き手が、見えない糸で操られているように、
整然としかも優雅に舞い、動く。

興ざめだったのは、NHKのライブ中継というやつ。
確かに地元にとっても、観光資源を全国へ宣伝する絶好の媒体に違いないし、
現地へ行けない人に、空気を含めて伝えるのだから、価値がないわけではないが、
そのライトや音声を随えたカメラのクルーは、やはり
現場の厳粛でさえある空気とは違和感の強いものであった。

それでなくとも観光の見物客で身動きのできない表通りを避け、裏道へ。
そこで一番気に入ったのは、ほかでは聞かれない、胡弓の揺らぐような音だった。

また、行って、見て、聞いて、感じたい、と思った。

一日から三日、といわれる「本番」だが、
それ以前の、観光客がいりこむ前や、三日目の夜更けが良い、という話だ。

2007年8月19日日曜日

やっぱり東京は暑い


焼けている、とは聞いていたが、さすがに今年の夏は暑い。
前半の冷夏風のあとだけに、余計、こたえるのだろう。

まして、信州の涼風に寛いできた体には堪える。
もう夏休みは十分にとったので、そろそろ仕事に戻る態勢に入らなければならない。

それにしても、今年の夏、なぜか赤トンボの姿をトント見かけない。
アキアカネだから、平地ではもう少し遅いのかもしれないが、信州の山の上でも、今年はオニヤンマばかりが目についた。何かの異変なのだろうか。

今回の信濃路の滞在中、合歓の木が多いのに驚いた。
東京でもたまにあるが、家の近くの百日紅の咲いているほどの頻度で、合歓の木にであった。
樹上に淡いピンクの花が可憐に咲いていた。