2007年8月28日火曜日

「ミシュラン」の命日

きょうは、うちの「長男」の1周忌、命日だ。
「長男」の名は、「ミシュラン」。オス9歳のチワワだった。

去年のこの日も、暑い一日だった。
前の晩から、「ミシュラン」は吐く息が苦しそうだった。
横になることができないらしく、時々苦しげに咳をしていた。
風邪というのではなく、心臓に疾患があったのか、肺に水が溜まり、
呼吸が苦しげなことが、段々に増えてきていて、早めに病院に連れていこう、
と言っていたところだった。

朝になった、妻が動物病院に連れて行った。
「余り、調子が良くはないみたいだけど、夕方には連れて帰れそうだ、と
お医者さんはいっている」との話だった。
夕方、少し早めに帰宅する途中、妻から連絡が入った。
「どうも様子がおかしいみたい。急いで来て欲しい」と病院からだった。

十数分後、動物病院に着くと、妻は受付のソファで、
毛布に来るんで横たえたミシュランを抱えていた。間に合わなかった。

「ミシュラン」は、下の娘が中学三年で、学校へ行けず、自室に籠もり始めた頃、
通学路にあったペットショップから、「たっての望み」で買入れた。
これまでは平屋に住んだときにウサギなどを飼ったりしたが、
現在はマンション住まいでもあり、ペットも亀どまりだった。
果たして、マンションで飼うことができるか、ちゃんと飼育ができるか――。
そんな諸問題も、少しづつ解決していった。

ちょうどチワワのウルウルとした眼が、サラ金のTVコマーシャルで一躍、
ブームを呼び始めた頃。娘の躾よろしく、生来のおっとりとした性格のミシュランは
家中の欠かせない一員となっていた。

ミシュランの死は、飼育の中心になってきた娘と妻にとって、
形容し難い苦しみであり、悲しみであった。
亡き骸は、その週末、一家で野尻の山荘の地中に埋葬した。
カラマツやカエデなどの葉が積み重なった腐葉土の中、
ミシュランが好きだったウシの縫い包みなどと一緒に……

それから数ヶ月、妻もミシュランと散歩に出かけたコースを歩くことができず、
散歩で出会った犬友達と顔も会わせたくない、と閉じこもり勝ちであった。
「次のイヌを飼ったら」というアドバイスもあったが、
「ミシュランが死んだからといって、すぐにゲーム機を買い換えるみたいにはできない」
と寧ろかたくなな心は開かなかった。

今年の初めになって、妻と娘が、やっとペットショップを覗きに出かけるようになった。
やはり、いままで家の中にいた友達が急になくなった、との喪失感を癒すのには
代わりにはならないまでも、ペットに如くはない――。

上の娘が急遽、結婚をすることになり、一段落した5月の連休。
家に帰ると、小さな白い物体がゲージの中にいた。

2代目のチワワ。今回はメスだった。11月に生れた5人?兄弟の妹分らしい。
川崎の国道1号線沿いにあるペットショップだが、こじんまりした店で
飼っているおばさんの躾け方も気に入っての決断だった。

前回、ミシュランの時の命名者は、下の娘だった。今回も娘は
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくる
「幸いの竜」フッフールを付けたかったらしい。
しかし、「白い」イヌの白さにこだわった父親や上の娘が
白い酒「マッコリ」などと茶々をいれ、白いのに妥協して「ルー」と名前がついた。

先日、信濃町に出かけた際、山荘のミシュランの墓に詣でた。
思わず、埋葬した地面は、ミシュランの犬形に沈み込み、
自分の存在を主張しているかのようだった。
持って行った花を植えてきた。

ミシュランが4キロくらいはあったのに、ルーは2キロほど。
そのかわり思わぬほどのすばしこさを発揮する。
ミシュランを悼みながら、いまではすっかりルーが仲間だ。

2007年8月20日月曜日

やはり胡弓の音



九月、というと、「セプテンバー・ソング」の前に、
風の盆の胡弓の音を思い出す。

私が越中・八尾を訪れたのは、もう何年前のことか。
多分、二十年ほど前にもなろうか。

ちょっと夕方にかけ小雨が通り過ぎて、列をなす鳥追いと浴衣姿の踊り手たちと、
三味と胡弓の弾き手が、見えない糸で操られているように、
整然としかも優雅に舞い、動く。

興ざめだったのは、NHKのライブ中継というやつ。
確かに地元にとっても、観光資源を全国へ宣伝する絶好の媒体に違いないし、
現地へ行けない人に、空気を含めて伝えるのだから、価値がないわけではないが、
そのライトや音声を随えたカメラのクルーは、やはり
現場の厳粛でさえある空気とは違和感の強いものであった。

それでなくとも観光の見物客で身動きのできない表通りを避け、裏道へ。
そこで一番気に入ったのは、ほかでは聞かれない、胡弓の揺らぐような音だった。

また、行って、見て、聞いて、感じたい、と思った。

一日から三日、といわれる「本番」だが、
それ以前の、観光客がいりこむ前や、三日目の夜更けが良い、という話だ。

2007年8月19日日曜日

やっぱり東京は暑い


焼けている、とは聞いていたが、さすがに今年の夏は暑い。
前半の冷夏風のあとだけに、余計、こたえるのだろう。

まして、信州の涼風に寛いできた体には堪える。
もう夏休みは十分にとったので、そろそろ仕事に戻る態勢に入らなければならない。

それにしても、今年の夏、なぜか赤トンボの姿をトント見かけない。
アキアカネだから、平地ではもう少し遅いのかもしれないが、信州の山の上でも、今年はオニヤンマばかりが目についた。何かの異変なのだろうか。

今回の信濃路の滞在中、合歓の木が多いのに驚いた。
東京でもたまにあるが、家の近くの百日紅の咲いているほどの頻度で、合歓の木にであった。
樹上に淡いピンクの花が可憐に咲いていた。

2007年8月10日金曜日

信濃町での酔生夢死

現在、信濃町に滞在している。
長野県上水内郡信濃町。すぐ北側は県境をはさんで新潟県・妙高。

この町に来初めてから、何年が経つだろう。

一番初め、ここへ来たのは大学2年生の夏。
野尻湖のホテルで、研究所の夏の合宿が、毎年ここで行われていた。

野尻湖は、県内の諏訪湖に次ぐ大きさの湖。近くの斑尾山が出口を塞いでできた、との説がある。
マンモスの骨が出てきたことから、大衆的に発掘が行われたことでも知られる。

黒姫山、妙高山、飯綱山が見え、反対側には斑尾山がある。

戦前から「山の軽井沢」「湖の野尻湖」として、外国人の避暑地として好まれ、湖畔に外国人村、今では「国際村」と呼んでいる一画には、夏を楽しむ外国人の姿がよく見られる。
ブルーベリーや、ルバーブなどという西洋野菜や果実が、早くから栽培され、利用されてきたのは、他に見られないものだろう。

一方で、この地は、小林一茶のふるさととしても知られる。一茶の記念館は、この町の観光の目玉のひとつだ。
冬はスキー客で賑わう黒姫山の中腹には、童話館があり、一面のコスモス畑を越えてくる風に身を任せていると、それだけで幸せになれる。

縁があって、かれこれ4半世紀前から、ここの別荘マンションに通い始め、冬と夏に関西から、また後には東京から通ってきている。

ひと夏の中で、何が幸せといって、大きな木の陰にデッキチェアーを持ち出し、木漏れ日の中で一杯呑みながらの読書、そしてまどろみ。酔生夢死。青空に白い雲が勃然と湧き上がり、林の中を吹き抜けてきた風が、やさしくヒンヤリと頬をなでていく――。休みだから、と走り回るのとは違う、ちょっと贅沢な気分だ。

還暦を過ぎたら、せめてそれくらいの贅沢を許してもらおう。

2007年8月9日木曜日

戸隠好天

戸隠のバードラインを走って、奥社まで行ってきました。

長野県上水内郡信濃町、という所に、現在、滞在しています。
野尻湖と一茶旧跡の町です。
そこからバードラインというのだそうですが、まずまずの舗装された山道をドライブ。
取れたての玉蜀黍を焼く良い匂いを嗅ぎながら、ひたすら進みます。

ざっと40分。登りの道が信濃町から「これより長野市」の標識(正確には「これより」はない)を過ぎると戸隠の牧場があったり、忍者屋敷がある。これも時間のある時には、お楽しみなのだが、本日は娘と連れ合いの母親(84歳)連れなので、まずは戸隠のスキー場近くのヒュッテ兼カフェ「パイプのけむり」へと目指す。

ちょっと入りこんだ場所ともいえるが、スキー場の第3駐車場を少し降りたところなのだそうだ。連れ合いらが、もう何年前からになるのか、10年は下らないのかもしれない位の以前から、毎年の夏、1-2度は訪れているお店。ドロップアウトしたマスターのカレーやシチュー、ケーキなどを、それらしい山荘風の店内で食べ、マスターやその連れ合いさんと会話――あの人、この人、以前かかわりのある人たちの消息などが、またご馳走になる、そんなお店。少し遅めのランチだが、コースで食べたら、これは満足、満足……。

帰り道、戸隠の奥社へ参った。
御婆ちゃんも、数年前までは健脚を誇り、歩いてみよう・食べてみよう、の御婆さんだったが、昨年夏前に首筋の神経が狭窄してきたため、手術をし、予後は悪くないのだが、すっかり気弱になるとともに、歩けなくなったことを本人が一番自覚し、落ち込んでいる。それでも孫娘が精一杯の世話をしているだけに、孫娘と婿さんに気兼ねして、「奥社まで、腹ごなしに歩いていらっしゃい」とノタモウた。

これまでにも何度か、奥社へお参りしたように思ったが、久しぶりに娘と二人でお参りするのも悪くないか、と歩き始めた。持っていた超長めのレンズをつけたカメラでおばあちゃんが段々見えなくなって、その先が、すばらしい杉並木ながら、何と長かったことよ。

薀蓄ひとつ、二つ――
「戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。 
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。   (戸隠神社HP)

神仏混淆のころは「戸隠山顕光寺」と称して、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えたのだそうです。 

江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東比叡寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。明治になって戸隠は廃仏毀釈の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。(同HP)

昔から都に名が知れていた、ということは能 「紅葉狩」などに残る、鬼女伝説にもそれが示されているのだそうな。これはウキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E4%BC%9D%E8%AA%AC――
才色兼備の呉葉という主人公が、いつの間にか「紅葉」という名になるらしいのだが、お試しください。

奥社までは、ざっと往復4キロ=1時間の行程。娘と日ごろは話さないような話をしながら歩きました。
めでたしメデタシ。

2007年8月3日金曜日

「喪章を着けた千円札の漱石」

今週の月曜日、7月30日に「明治の『最期』の日」を書いた。

その後、ふと一冊の本を思い出した。

「喪章を着けた千円札の漱石」というのが、その本だ。福岡女学院大学などの教授で、原武哲(はらたけ・さとる)という人の著書で、笠間書院から03年10月に出ている。

漱石の研究家は、ゴマンといるようで、漱石という作家の人気を裏付けているのだけれど、この書名に思わず、この本を手にとった。

有名な千円札の漱石の肖像がある。この写真がいつ、どのような状況で撮られたものであるのか、という一種の謎解きのような興味といえよう。

答えは、概ね既に知られていることのようだ。明治45年9月に東京の写真館で、小川一真氏が撮影した4枚のうちの1枚、という。漱石の娘婿、松岡譲編纂の「漱石写真帖」に、そのように出ているのだそうだ。4枚のうちの1枚は集合写真で、漱石の終生の友である満鉄総裁になった中村是公と共に写っている。

現在のように、携帯電話でもパチリ、「写メール」という手ごろな手段など当然のことながら、当時あるわけではない。小川一真という撮影者も赫々たるカメラマンである。小川の事情もある。

それでは撮影の時期をもう少し絞り込むことができないか――。それが本の著者、原武氏の目論見であり、その手がかりになるのが、漱石の左腕に巻かれている「喪章」である、というのだ。

この「喪章」が明治の「最期」と関わってくる。つまり、天皇が亡くなると、官吏でもない一般の民衆が「喪章」をするような慣わしがあったのだろうか、と。明治天皇崩御を伝える新聞を紐解いてみた。

なるほど、あるある。「天地諒闇(りょうあん)」などという、恐らく多くの現代人が見たことのないような文字に混ざって、何度も紙面に掲載されている。

8月2日付には「閣令」というから、閣議ででも決められたのだろう服喪、喪服の例を説明している。少し長くなるが採録してみよう。(大阪朝日新聞8月2日付け7ページ、最下段)
●大喪中の喪章 
8月一日付閣令」第2号を以て皇室喪服規程其の他別段の定めあるものを除くの大喪中の喪章は
△和服 衣服の左胸に蝶形結びの黒布を付す
△洋服 左腕に黒布を纏う
(中略)期間は別に宮内大臣より公告なき限り皇室服喪令の示す所に随い1箇年と心得居りて然らん。

――このあとが面白い。

因みに喪章用の黒布は舶来の紗に限るものの如く考え商人が無闇に値段をせり上げ居るを不当なりと思いながら買い入れて佩用せる向きも多きようなれど……何の裂布でも黒色なれば差支えなしと知るべし。

ほかの広告ページには確かに喪章を勧めるものも見られる。

そして「歌舞音曲の停止」、子供の謹慎、各商店の店頭の弔旗の出し方までこと細かい。そういう時代だったのだ、と改めて思った。