2008年12月23日火曜日

2008年7月2日水曜日

未央柳


梅雨の合間に
気にかかるのが未央柳だ。

雨の中で咲くアジサイの爽やかさに比べても
この未央柳は晴れ間にパッと明るく目を射てくる。
雄蕊がたくさん、しかも長く伸びる様が
より艶やかさを感じさせるのだろうか。

名前もいろいろに呼ばれる。
未央柳は、ミオウヤナギと読みそうなのに
ビヨウヤナギとわざわざ訓が振られる。
美容柳などとも書かれる。

中国から約300年前に渡来したのだそうだ。
金糸桃と呼ばれ、白楽天の「長恨歌」にある、という。

伊藤忠林業さんの「木になるはなし」という
ページによると次のようなことだ――。
http://www.itcringyo.com/column/column37.html

太液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ

と、玄宗皇帝が楊貴妃と過ごした地を訪れて、
太液の池の蓮花を楊貴妃の顔に、未央宮殿の柳を楊貴妃の眉に喩えて
未央柳の情景を詠んだ一節があり、美しい花と柳に似た葉を持つ木を
この故事になぞらえて"未央柳"と呼ぶようになったと考えられます。
あるいは花が美しいことから、"美容柳”とも表されます。

――なるほど、楊貴妃か、と妙な感心をして、納得してしまう。
唐の王朝ロマンに思いを馳せて……

2008年4月13日日曜日

36回目の結婚記念日


長い時間だったのか、
歩いてきてしまった今日、
短かったようにも……。

考えてみれば、
この伴侶との出会いは
16歳の時であったから46年。
かれこれ半世紀=50年に近くなる。

いろんなことは、あって当然。
当然のことで、いろいろあった。
そして、この先も、どれくらいかは別にして
一緒にいることだろう。

「記念日」は、祝わなければならないか――
どうしても祝わなければならないこともあるまい。

テレビのCMのようなことも、
歯が浮くようで、ようしません。
気持ちがないわけではないけど、
ようせんのです。
それだけです。

まずは、これからの何年になるのか、
お互いの歩きたい道を、
それぞれの距離で付きつ、離れつ……

無事であることが第一なのだけど、
それにも、事は起きてくるのでしょう。
その時のことも、どこかで覚悟をしながら……

飼っている犬だって、
突然に何が起きることか分からない。
人も犬も。頑張ってやっていく記念日にしよう

2008年3月20日木曜日

地下鉄サリン事件から13年

13年前のきょう(3月20日)は、月曜日だった。
朝からドンヨリした、いかにも春先の薄ら寒い日だったように記憶する。
JR新橋の駅を降りた頃から、街中にあちらこちらで救急車のサイレンが一斉に鳴り、コンクリートの街で反響が増幅され、鳴り続けていた。状況は良く分からないが、一報は「地下鉄築地の駅で爆発騒ぎ」とか、情報は錯綜していた。

発生は午前8時半、地下鉄の霞ヶ関へ向かった地下鉄の列車が狙われていた。次々に入る列車が一斉にサリンの惨禍に見舞われ、権力中枢の霞ヶ関を地獄に、という絵が描かれていた。

テレビは各局(NHKの教育テレビを除く全局だったそうだ)、一斉に地下鉄の各駅付近からの実況中継。地下から地上に助け上げられ、救急車を待つ被害者たちの映像を流し始めた。築地の聖路加国際病院が中核的な受け入れをして、どうやら事件の核心が「サリン」という化学物質であることが分かってきた。

前の年の6月、長野県松本市で発生したサリン事件の記憶はまだ新しかったが、この事件は冤罪事件として記憶され始めたものの、現実感のない事件であった。身近にこの事件で息子を亡くした同僚がいたことが、他の人よりは現実的な印象は残しながら……。

この年は、1月の阪神淡路の大震災で明け、経済も一向に明るさが見えない。そこに、このサリン事件だった。何か表現しがたい、恐ろしいことが、まだまだ続いて起きるのではないか、という恐怖が湧き上がってきた。さらに3月30日には警察庁長官が自宅前で狙撃される、という事件も追い討ちをかけた。

オウムというオカルト集団にメスが入ったのは、地下鉄事件の2日後、警察庁長官狙撃は、オウムが犯行によって、オウムから目をそらさせようとしてのことだった。第6サティアンから教祖が引き出されのは、暑くなり始めた5月半ばのことだった。

40年余り前、「邪宗門」という小説が高橋和巳によって書かれた。戦前の大本教がモデルといわれ、国家権力の弾圧の前に、世直しの教義が示され、滅びていく、というものだったが、それとは異なる、現実にこの世に終末を呼び込もうとする邪宗を感じたものだった。

その後、ニューヨークでは01年の9・11事件。アル・カイーダという原理主義グループの犯行。宗教とは、人を救いもすれば、世界を破滅させることもある。そのことは、決して終わることのない現実なのだろう。

2008年2月3日日曜日

名作と地下水道

名作の映画、というのは、何度か見直して、また新たな発見がある。

3日、たまたま観ていたBSで「第3の男」を、途中から観た。
有名な観覧車の中でのハリーと主人公の小説家、ホリーとの出会いの場面だった。
その後、ハリーを警察に売ることで、ハリーの恋人アンナをウイーンから脱出させようとするが、駅頭でホリーの姿を見かけ、不審がって乗った列車から降り、ホリーを詰る場面。
そして、もっとも有名なラストシーン。並木道がシンメトリーな形を作る、墓地からの道。アンナが遠くから近づいてくる。待ち受けるホリーに眼をくれず、前を通り過ぎていく。「やってらんないね、この女」とは言わぬが、そんな声が聞こえて来そうな仕草で、ホリーが、タバコにつけた火を放り投げる……。

途中、ハリーが逮捕されるまでの、光と影のドラマが改めて印象的だった。
キャロウエー少佐らが待ち伏せする街角の喫茶店。廃墟の街に、風船売りがやってくる影が大きく、大きく写る。どんな大きな男がやってくるのか、と息を呑みながらみていると、それは肩に括っていた売り物の風船の束が作った影だった。

喫茶店の裏口から店に入り込んだハリーは、警察の部隊に追われ、地下水道へ。
地下水道は、巨大な下水道だ。いまでこそ、東京の地下にも、雨水を逃すための巨大な下水道が掘られているが、こんな下水道が100年も150年も前からできている欧州の大都市の基盤整備の底力には驚く。

地下水道といえば、アンジェイ・ワイダ監督の「抵抗三部作」の一つ、「地下水道」(1956) でも登場した。第二次大戦末期、ドイツ占領下で蜂起したレジスタンスの部隊の話。河の向こうまでやってきたロシア赤軍と示し合わせての蜂起の筈だったが、戦線は思わぬドイツ軍の戦力の建て直しと、ロシア軍の足踏み、停滞の前に、レジスタンスはナチス軍の前で行き場を失う。迷い込んで脱出ができない、というレジスタンスの置かれた状況を映しながら、まさに下水道が舞台になった。敗退して四散した部隊は、そのままでは全滅するのがみえている。本隊に合流するには、地上での軍行動で突破は困難、として地下水道にもぐった。発狂する文学青年や裏切り。やっとのことで出口をみつけるのだが、そこにはまばゆい陽光をみせながら鉄格子が無情にも……。

もう一つ思い出すのが、有名なパリの地下の下水道を舞台にしたジャンバルジャンの物語。「レ・ミゼラブル」。瀕死の重傷を負ったマリユスを背負って下水道を通り、バリケードから脱出する、というくだりがある――。

このパリの下水道には、わざわざパリを訪れたときに潜ってみた。
見られるのは、毎日ではなく、毎週であったか、隔週であったか、確か水曜日の午後の1-2時間。恐らくは、お役所仕事の一環であったのだろうが、結構、そんな酔狂な旅行者というのは、世界から集まるもので、私が行った30年も前のそのときも、時間には参観を待つ長い列ができていた。
その時の、印象は薄れてきているが、思ったほどには汚く臭くはないが、決して綺麗でも良い匂いがするわけでもなかった。地下水道には参観者用の歩道が整備されていた。当たり前かもしれないが、この施設も観光資源の一つであったのだから。

ウイーンにも出かけたが、このときには旅程も慌しく、地下水道を見学するまでの時間はなかったが、名作に出会うたびに、そんな経験を思い出したりするものだ。

2008年1月31日木曜日

日本画と西洋画

「絵画」は、日本の美術の中で、「日本画」と「西洋画」に分けられる。美術展から、制作グループまで、この色分けは徹底しているかに見える。

では、それは何によって分けられているのだろうか――。見方によっては単純な疑問に、当の「日本画」の作家が答えてくれた。今月19日午後、六本木の国立新美術館の会館1周年記念の特別講演のトークセッションでのこと。

美術史家の高階秀爾氏の「日本と西洋・近代美術の100年」の講演に続いて、日本画家として紹介された内田あぐり、畠中光享の両氏がゲストとして加わってのセッション。特に、テーマがあるわけでもなく、作家としての両氏の製作者としての歩んできた道や美術、中でも西洋画に関しての受け止め方、のようなことが高階氏の司会で話された。

乱暴に端折っていえば、どうやら「日本画」「西洋画」を分けているものは、詰まる所、絵を描くのに使う「絵の具」、その素材にあるようだ。それと大学・アカデミズムの中にある「日本画学科」「西洋画学科」という二分法。「学科」に入学したところから、顔料を使う日本画と、油を使う西洋画に分かれる、ということらしい。

もちろん、制作は理念だけでなく、すぐれて技術であるわけで、内田氏が「自分が『美』だと思うものを、たとえば日本画の技法としてある垂らし込みの技法に墨を使う、といったことがピッタリする。油を研究する時間がない」というのも確かなのであろう。

伝統というのは、それが辿ってきた歴史であり、そこに込められてきた時間、技法への探求の深み、厚みということなのかもしれない、と思った。

2008年1月7日月曜日

あれから20年

あれから20年がたったのかと思うと、
昨日のことであったようにも、
もう1世紀も前のことであったようにも思える。

午前6時過ぎに、自宅の電話のベルが鳴った。
慌ててラジオのボリュームを大きくすると、
天皇の容態は尋常ではないようだ。
もうすでに、事態はさらに進んでいるのかもしれない。
すぐに出社を求める電話だった。

取るもの、着るものもとりあえず、
タクシーを呼び寄せ、皇居へ向かった。

7時半過ぎから侍医が大講堂で会見を行った。
次から次へ、儀式は進行していった。
しかし、待つ時間の長かったこと。

午後からは、当時の内閣官房長官が会見した。
左手に「平成」と縦書きした色紙を持ち、
「昭和」の次の年号が「平成」と決まったことを示した。
小渕さんの顔が、なぜかはにかみながら笑っていた。

その日からの服喪。
テレビは、延々と昭和天皇の回顧の映像を流し続け、
歌舞音曲が消えたのだった。

あれから20年。
すでに歴史の一齣になってしまったのだろうか……。

2008年1月4日金曜日

プール

世の中、仕事初めの4日、横浜・鶴見のプールへ出かけた。
目の前に横浜ベイブリッヂが見える埠頭のプールサイドだ。

日ごろ、運動といえばテニスを週に1-2度のペースで、この10年ほど楽しんできた。
昨年の9月、テニス・エルボーというのだろうか、肘を痛め、その後、いろいろな療法をためしているものの、いまだ思うような回復をみていない。だから、半年まではいかないまでも、この間、運動らしい運動から遠ざかっていて、仕事場がかわったことや、パソコンに向かい合う時間がこれまでよりも増えたことなどから、肩や腰の凝りなど体のあちこちがゴリゴリ、がたがたになっている昨今だ。

去年暮れから、このままではいかん、と水泳を思い立った。
なにもオーバーなことを考えているわけではない。別に急に遠泳をするわけでもない。水の中を歩いているだけでも、立派な運動になる、と。

プールは、25mのプールをはじめ、流れるプール、ジャグジーなど、いろいろな楽しみ方ができる。
高齢者用に大浴場も別料金で用意がされている複合施設。
意気込んで出かけたものの、25mのコースをさて、何本泳げたか。平泳ぎ、背泳など、決してスピードを競うものではないが、体の凝りがほぐれた。

やはり、体は動かすに如くはないようだ。